柳田國男は、初期の著作『海上の道』の冒頭といってもいいほどの前半部で徐福について語っている。それは避けては通れぬということを示しているようにも思える。
『東方の、旭日の昇って来る方角に、目に見えぬ蓬莱または常世という仙郷のあると思う考え方は、…今日もなお分布している。いわゆる徐福伝説の伝播と成長とには、少なくとも底に目に見えぬ力があって、暗々裡に日本諸島の開発に、寄与していたことは考えられる。
…徐福が数百人の男女の未婚者を引き連れて、船出をしたということには意味があったと思う。もしも仙薬を採ってすぐに還って来る航海だったら、そんな手足纏いを同船する必要は少しもなく、同時に他意あることを疑われもしたであろう。それを堂々とあの大一行をもって出征したというのは、これも後世の開発団のように、行ってその土地に根を張ろうという本式の移民事業か、少なくともそういうふれこみをもって、親々を承知させたものと、世間では解していたのであろう。三千年に一度実を結ぶ桃という話もある。仙薬は決して夢の山のダイヤモンドのように、熊手で掻き集めて背負って来られるものでなく、やはり育てて収穫して調整し加工して、後から後からと献上して来るものと予定せられ、昔の人は、気が永いからそれを際限もなく待っていたのかと思う。
…漂流漂着という中でも、結果のあったものと空しいものとがあって、もちろん上古には第二の方が、悲しいほども多かったにちがいない。活きて自分たちはここにいると、故郷に知らせることができなかった人々も、ほどなく死に絶えたことであろう。海の冒険には妻娘を伴って行かぬのが常だからである。そうなると結局はいったん帰って来て、いろいろ支度を整え居住の企画を立てて、再び渡って行くことになるので、これはある程度の地理知識を具え、明らかな目標を見定めての航海だから、漂流でないことは言うまでもなく、いずれ危険も艱難も伴わずにはすまなかったろうが、ともかくも距離はそう遠くもなく、かつ現在までの生活境遇と比較して、顕著なる改良が期待せられる場合には、稀には昔の人たちでも、こういう移住を決行することがあったろうと思う』 柳田國男「海上の道」より
徐福の物語から約2200年がたったといわれる。三千年に一度実を結ぶという桃が明らかになるのも、もうやがてだろうか。
福岡市博多の山笠には、各町内こぞって大きさ、美しい「飾山」を創って、アイデアと豪華さを競う。平成18年度、ソラリア(西鉄)の飾山のテーマは「日中宥和徐福勲」(にっちゅうゆうわ、じょふくのいさおし)だった。いまから徐福の時代が来ることを予見している飾山だった。