3世紀の前半のこと。中国では魏と呉と蜀の三国に分かれ争っていた。諸葛孔明(蜀)が活躍していた頃、日本(当時中国からは「倭」のくにと呼ばれていた)の有様が「魏」の歴史書「魏志」に述べられている。それが「魏志倭人伝」である。
それによると、当時わが国は「卑弥呼」と呼ばれる女王が統じていた。女王の邪馬台国はどこにあったのか、いまだに判らない。なぜか「魏志倭人伝」の表現が極めて(不正確)と思われるほど曖昧である。当時日本には文字はなかった。(紀記は邪馬台国の時代から5世紀ほど後の8世紀に出来た)外国人の表現である。おそらく著者(陳寿)も、聞き綴りであるだろう。
従って「邪馬台国」を探すには「魏志倭人伝」にたよらざるを得ないことになる。
そして、それを裏付ける史科(資料)としては考古学の成果を待つことしかない。
近年、考古学界の発展は目を見張るものがある。
各地での開発の結果、偶然に貴重な資料が日の目を見ているが、まだ邪馬台国のそれには行きつかない――。
九州説、近畿説と大別されているが‥‥確かに存在したことは歴史的史実である。
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それにしても、中国は偉大な先進文化国だと思う。本誌別ルートにも述べているが、「阿蘇山」の記述が既に(7世紀頃)中国の史書に現われている。
海外交流は、遥けくも遠い、日本の有史以前から行われていた。
あなたなりの探求も楽しい。一方では、中国の史書から日本も学ぶことができる。
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。」
「また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。」