私が特に小国といふことを頭に深く刻みつけることになつたのはかういふわけである。私が小国行を中止するといふ電報を、耶馬溪の山国屋から小国の笹原耕春君の家に打つた。
さうすると其時、耕春君の家には、其時分まだ娘さんであつた耕春君の妹さんの梨影女さん自ら障子の貼替へをしたりして、明日は愈々来るのだと楽しんで待つてゐた。そこへ俄かに中止といふ電報が来たので、暫くは一同飽気にとられた。梨影女さんは泣き出す、・・・(中略)…といふ騒ぎがあつたといふ事を聞いた。
そんな事は少しも知らず、電報で断つたからそれでいゝものと思つて翌日別府から乗船しようといふ間際に、横井迦南君が私の泊つて居る部屋に入つて来て、私は今小国からやつて来たのであるが、小国の人が非常に失望して殊にこれこれの騒ぎが起こつたといふことを云つたのであつた、また梨影女さんといふのは美しい娘さんであつて、嘗て日田の俳句会にも出てをつたこともあるし、又、私の出席した二三年前の別府の俳句会にも来たことがあるとの話も聞いた。私は其等の俳句会に出席した人々の顔を覚えないし、名前もおぼえないし、そんな若い娘さんが居たのだといふ記憶もなかつた。がとにかく綺麗な娘さんが泣いたといふことを多少ロマンティックに覚えて、其後梨影女さんに戯れて斯ういふ歌を書いて送つたことがあつた。
火の国の火の山裾の
乙女子が
泣きしと聞きぬ
わが心痛む
それから耕春君とも手紙を往復した中に、耕春がかういふことを言つて来た。阿蘇山麓の農村青年は非常に忠実な俳句の徒であつて、農繁期に当つても多少の暇さへあれば数里の道を遠しとせずして自転車で皆小国へ集つて来る。中には、若い女の人もその青年に交つて来る。夜おそくなつても山路を怖れず帰つて行く。といふその農村青年の豪健純真な姿に頭が下るといふ事を云つて来た。
私が小国といふものを頭に強く印象したのはかういふことがある為めであつた。だんだん日が経つにつれてやうやく「瞼の底の小国」といふやうな感じになつて来るのであつた。
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私等は今断崖の上に立つてゐるのであつた。前は窪地になつてゐた。窪地といつても広大無辺の窪地である。その中に町や村も点在してをれば汽車も走つてをる。それが一眸のうちに俯瞰されるのである。さうしてその向ふには、所謂阿蘇五岳が聳えてゐた。中岳といふ五岳の中の其の一つには、噴煙が高く昇ってゐた。
それらの景色が広く展望されるので、此処が遠見の鼻と呼ばれ、又大観峰とも呼ばれ、所謂阿蘇外輪山の一角であるとのことであつた。すぐ左手のやうに見えるが、大分距離があるのであらう、そこは象ヶ鼻と呼ばれ、恰も象の鼻の如き断崖が突出てゐた。
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縦横に水の流れや芭蕉林 虚子
これは今から二昔半も前、虚子二度目の来熊の際、まだここが料亭江津華壇であつた頃遊んだ時の作である。虚子はその頃をなつかしむが如く、若杉宮様の清遊を偲ぶが如く、芭蕉林に奥深く入ってゆく。
芭蕉林映して水の
ゆるやかに 虚子
芭蕉林なほ冬の蚊の
栖むところ 年尾
やがて一行は江津湖畔中村汀女の生家を訪ねる。こゝには年老いた母堂が一人住つてゐる。母堂斎藤てい子さんは虚子と同年の七十九歳。
「私は二月生まれであなたより六ヶ月の兄ですよ。」
と虚子。
「汀女が横浜では大変お世話になりました。今度はまあよううつたちなはりましたな。」
と母堂。一行もこれを聞きながら心和むものがあった。
かく告げんかくも話さん 石蕗黄なり 立 子
とは立子の感慨。
立子この庭の菊に
汀女の俤を 虚 子
の一句をここに残して出発。水前寺に向ふ。
水の中の落葉を掃くも
水前寺 虚 子
ここで中食。折から後藤是山が久潤を叙する為尋ねて来る。
熊本城を尋ねる。
(後略)