山頭火を語るとき、忘れてはならない人物がいる。木村緑平、本名、木村好栄。長崎医専を卒業、内科医、「層雲」同人。山頭火を物心両面で支えた人物であった。昭和2年3月2日、明治豊国鉱業所病院に着任、以来10年にわたり宮床の職員社宅に住んだ。雀の句を得意とし、雀を詠んだ句だけでその数、三千にも及ぶという。
「逢ひたい 捨炭山が見えだした」緑平居から谷一つ隔てて、ボタ山が間近にそびえていた。山頭火が緑平居に草鞋を脱ぐと、温かい風呂、酒と肴はツネ夫人が用意し、話の種が尽きることなく山頭火と緑平は夜が明けるまで語り明かした。山頭火が緑平を訪ねること15回、田川の句が数多く詠まれている。
異郷を行乞する山頭火にとって、緑平は文字どおり「南無緑平老如来」であった。山頭火が生涯書き綴った日記は、全冊緑平に託している。木村緑平がいなかったら今日の山頭火は存在しなかったろうと言われている。
炭鉱が緑平を、ボタ山が山頭火を郷土に招き寄せ、糸田を舞台に記念すべき文芸活動が展開された。この二人の交流を長く記憶にとどめ、ふるさと創生のシンボルにと願うものである。
●伯林寺境内句碑
雀うまれている花の下を掃く(緑平)
逢ひたい ボタ山が見えだした(山頭火)
●糸田小学校前句碑
かくれん坊の雀の尻が草から出てゐる(緑平)
ふりかえるボタ山ボタン雪ふりしきる(山頭火)
●木村緑平旧居跡
聴診器耳からはづし風の音きいている(緑平)
逢うて別れてさくらのつぼみ(山頭火)
山頭火が初めて中津の句友をたずねたのは、昭和4年11月中旬である。阿蘇、耶馬渓などを経て『層雲』の同人・松垣昧々宅に宿泊した。「また逢うまでのさざんかの花」という名句を残した。
山頭火は、前日の15日に玖珠町を発ち、深耶馬溪を通って、柿坂から耶馬溪線に乗って中津へむかった。当時、耶馬溪線は蒸気機関車であった。16日は、市内の料亭筑紫亭で句会があり、フグチリで酒をたらふく飲んで、翌17日はほろ酔い状態で山国川を渡った。
「酔うて急いで山国川を渡る」
種田山頭火 「行乞記」
山頭火日記
昭和五年 九月十日 晴。
行程三里。日奈久温泉織屋。(四〇銭、上)
午前中八代行乞、午後は重い足をひきづって日奈久へ、いつぞや宇土で同宿したお遍路さん夫婦とまたいっしょになった。
方々の友へ久振にほんたうに久振に音信する。その中に私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅へでました。歩けるだけ歩きます。行けるところまで行きます。温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよく海もよい。出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが(それほど私は疲れてゐるのだ)