慶長二年、第十七代薩摩藩主島津義弘公は朝鮮に再出陣し、慶長三年(一五九八)約八〇名の陶工たちを連れ帰り、そのうち四〇余名が鹿児島の串木野島平に着船した。
朝鮮慶尚北道青松に本貫を置き、その一族からは李朝四代世宗の后妃になった者もある名門、沈氏の出身である当吉もその中にいた。
慶長八年(一六〇三)串木野から伊集院郷苗代川(現在地)に移住し、同十年、初代沈当吉が苗代川焼を開窯した。十八年後、初代当吉は薩摩藩の命を受け、朴平意と共に白土を発見、今日の薩摩焼を創製した。
島津家は陶工達を優遇し、士分に取り立てその芸術的所産には、薩摩の国名を冠し薩摩焼と呼んだ。爾来明治維新までの二百数拾年間、島津家の庇護を受けながら、李朝の流れに連なる陶技を磨きつづけ苗代川の技術的裾野は広がっていった。
登窯からうまれたもののうち、白薩摩はすべて藩公の手に収められ黒薩摩は、庶民の中で「黒もん」と愛称され生きつづけてきた。
約四百年間、一子相伝で李朝陶芸の秘法を伝えてきた沈家は、その血脈を守り歴代名工の名をほしいままにしながら、薩摩の歴史と共に生きてきた。明治維新の風は、苗代川の陶工たちの上には冷たかったが、第二十八代藩主島津斉彬公時代より、藩営焼物所の主宰者であった第十二代沈壽官は、明治六年、オーストリア万国博に大花瓶一対を出品。これは外国人の大きな賞賛を博した。以来、豪州、ロシア、アメリカなどの諸外国に薩摩焼輸出の道を開き、「サツマウエアー」の名は日本陶器の代名詞にまでなった。
明治八年、藩営焼物所廃止に際し、十二代沈壽官は私財を投じてその工場を引きつぎ、苗代川再興に全力を傾け、独立自営の策を講じ、悲運をはねのけて苗代川のみでなく、薩摩陶業界の指導的役割を演ずるなど、名実ともに苗代川の総帥として混乱期を乗り切り、近代薩摩焼の中興の祖といわれた。
十二代沈壽官は、製法などの工夫も多く、特に浮彫、透彫の技法の発明は高く評価され、明治十八年、農商務卿西郷従道より功労賞を受ける。また宮内省ご用の栄光に浴し、明治二十六年北白川宮殿下ご夫妻のご光臨を戴き、明治三十四年には産業発展の功労者として勅定の緑綬褒章を受けた。その後十三代沈壽官が伝統をうけつぎ、ロクロ一筋の道をあるき続け、内外幾多の展覧会で最高位賞をうけ、政府より位階を贈られるなど、陶工として栄光に満ちた一生を終った。
現在は、十五代沈寿官窯が伝統を受けついでいる収蔵庫には歴代の作品が数多く保存され、薩摩焼の歴史を語り続けている。
薩摩焼宗家
壽官陶苑のパンフレット一部引用
鹿児島市日置市東市来町美山 (旧苗代川)
※美山陶遊館
美山の窯元の代表的な作品が展 示販売されている。陶工の指導の もとに、ロクロ、手ひねりの体験(有料)ができる。