十七世紀の初め、磁器の本場といえば中国の景徳鎮であった。折しもヨーロッパの国々が世界へ船出し、オランダがアジアに進出していた頃。それまで木製の器や陶器を使っていたヨーロッパの人々は、東の国で発見した磁器の艶やかな肌に驚きの声を上げていた。このような中、日本で最初の磁器が肥前有田郷で産声をあげた。
中国では明王朝が清王朝に倒され、窯業地帯は衰退。やがては貿易が禁止される。一方、肥前有田では、鍋島藩の振興政策、商人、そして陶工の努力により、瞬く間にその技術を高め、中国の模倣に終わらない日本独自の図柄を生み出していく。
この成り行きを見ていたのがオランダ東インド会社(VOC)である。アジア貿易にて台頭してきたこの会社は、磁器の輸入先を中国から日本に切り換えた。こうして大量の肥前磁器が海外へ旅立って行くことになる。
長崎から積み出された磁器は、現インドネシアのバタビアを拠点とし、アジア、アフリカ、ヨーロッパの各地に運ばれていった。"セラミックロード“とよばれる海上交易を通じて各地に渡った肥前磁器はその美しさで人々を魅了し、とりわけヨーロッパの王侯貴族を虜にした。
ヨーロッパではバロック様式が台頭していた。華やかな宮殿の中でも磁器は見劣りすることなく、食器といった什器に限らず、室内装飾の重要な要素とされた。輸出されたそのままの姿で、あるいは到着後に金属装飾が施され一層装飾効果が高められたり、シャンデリアや燭台となったものもある。磁器を飾るための部屋、ポーセリン・キャビネット(磁器の間)が発展し、今でもウィーンのシェーンブルン宮殿やベルリンのシャルロッテンブルク城に当時の面影を見ることができる。遠い東の国から運ばれた磁器は、富と権力を象徴するステータス・シンボルだったのである。
そんな磁器にまつわるエピソードも多い。ドイツのザクセン選帝侯アウグスト強王は、東洋の磁器百五十一個を兵隊六百人と交換したとされている。さらにコレクションした磁器のために日本宮の建造を計画。王が没したため完成しなかったが、そこに飾る予定だった磁器は、ツヴィンガー宮殿に今も保管されて貴重な資料となっている。王の命で磁器を焼くためにつくられたマイセン窯は、ヨーロッパの名窯として今に受け継がれている。
清々しい染付、乳白色の肌に瀟洒な文様が鮮やかな色絵で表現された柿右衛門様式。染付に金・赤の上絵を施した絢爛豪華な金襴手・・・。
染色や漆工芸、浮世絵を始めとする成熟した日本の元禄文化、さらにヨーロッパの文化を吸収し、その華を咲かせていった肥前磁器。四百年前に、世界の人々の心を奪ったメイド・イン・ジャパンが肥前の地にはあった。
佐賀県パンフレット
「世界の国々ゆかりの旅」から