朝日文庫・朝日新聞社刊
八幡といい、やはたという。いずれも八幡神(やはたのかみ)のことである。この神は、もっとも早い時代に仏教に習合したから「八幡大菩薩」などともよぶ。
日本の津々浦々に多い神々といえば天神(天満)さんに八坂神社、それにお稲荷さんだが、わが八幡宮は、それらを超えて、全国四万余社といわれる。
八幡神は十二世紀には清和源氏の氏神になり、その家系の源頼朝が鎌倉幕府を開いてから、諸国の武士達が八幡をまつるようになって、大いに流行した。十四世紀倭寇もまたこの神を崇敬し、船ごとに「八幡大菩薩」と墨書きした旗をたてたから、明代の中国人は、これを八幡船(ばはんせん)とよんだ。
「しまった」
という意のかつての日本語は、“南無八幡!"である。“南無天神"とか、“あっ、お稲荷さん"とはいわないのである。
譜代藩の多くは、ぬしの徳川家康が天下をとることによってにわかにつくられた藩なのである。だからたいていは三河風の質朴さがあるものの、一面封建門閥制においては教条的だった。
しかも、譜代藩は転封が多く、土地の文化や風土とはどこかちぐはぐで、領民との一体感も多くはもっていなかった。
外様藩の場合、とくに薩摩藩のような地生えの藩では、領民の愛郷心と家中の愛藩心が、一つなのである。
薩摩などの場合、おなじ家中が他郷で会うと、たとえ身分にちがいがあっても、
—おハン、薩摩な。
というだけで、たがいに心が通い合ってしまう。また上級の者は下級の者の能力の高さをよろこぶ。下級の者が学問で名をあげたりすると、郷党の名誉だとおもい、ときにひきたてたりもする。
さらには外様藩では文化が育ちやすかったようにおもわれる。
たとえば石見(島根県西部)は江戸時代浜田が譜代藩(松平氏六万石)であるために威張っていたが、しかしおなじ石見でも外様の亀井氏(四万三千石)が育てつづけた津和野の文化にはとてもおよばなかった。人材も、外様のほうが出やすかった。津和野から西周や森鴎外などが出て、いまなお藩風の豊穣をおもわせている。
そこへゆくと多くの譜代藩は、文化は差別だけが文化かと思わせるようだった。
× ×
私は最初に福沢旧居をたずねたとき、小さな公園になっているその場所のむかいに浄土真宗の寺があることを知ってうれしかった。
当然、毎日、その寺の門前で子供の諭吉があそんでいる。ときに説教の日があり、巡回説教師がやってきて、当日は祭りのように門信徒がおおぜい出入りしたにちがいなく、さらにいえば、かれがのちに演説という新習慣を興そうとしたとき、この寺の門前を目にうかべたかと思える。
(以上関係部分を引用いたしました。)