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島原半島の世界遺産候補と、冬でも美味しい島原手延べそうめん/半島まるごとジオパーク!島原半島ぐるり1周旅【3/4】

島原半島の世界遺産候補・「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつ「原城跡」は今のうちに行っておくべき!そして島原といえばそうめん。夏もいいけど、冬のそうめんもまた格別なんです。
大地の恵みと歴史をたどる島原半島ぐるり1周1泊2日の旅は、まだまだ続きます。

島原半島の世界遺産候補・「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつ「原城跡」は今のうちに行っておくべき

<島原半島で、きのこたっぷりランチともぎ採り体験>  <ほっと一息できる足湯と、地熱体験のナイトエコタツ>で島原半島の美味しい恵みをたっぷり摂ってゆっくり休んだ翌日は、南島原の有馬キリシタン遺産記念館へ。世界遺産登録候補を目指す「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつ「原城跡」と、原城の城主であった有馬家の本拠地であった日野江城跡についての資料が公開されています。
16世紀後半、キリスト教の伝来とともに日本の文明に異変がおきます。天正遣欧少年使節がもたらした当時の最先端の技術(写真手前に見えるのは活版印刷のレプリカです)や豊臣秀吉が限られた大名だけに持つことを許した金箔瓦など、キリシタン大名がキリスト教を大切にしていた時代のものがたくさん残っています。しかし、秀吉の伴天連追放令後もキリシタンを守り続けた有馬晴信の死により、それまで制御されていたキリシタンの弾圧がついに半島を襲いはじめます。
17世紀に入って禁教令が発布され、全国的にキリシタン弾圧が進む中、島原の統治権が有馬家から松倉重政に代わったことで、事態は急変。雲仙地獄は拷問、処刑の場所へと化します。しかし、当時全国で50万人にまで膨らんだと言われるキリシタンの信仰心は厚く、改宗するくらいなら処刑される死を選ぶという人も少なくなかったようです。これでは改宗せずに殉教した人に対する畏敬の念が増えキリスト教への想いが増すばかりと考えた幕府は、死に至る処刑から棄教へと方策を転向します。同時に厳しくなっていく重税や労働に苦しむ領民たちの想いをまとめあげ、立ち上がったのが天草四郎。歴史で習った島原・天草一揆(現在は島原・天草の乱ではなく一揆と改められています)です。
この一揆の舞台となったのが、原城跡。海の向こうに見えるのは天草です。実に3万7千人の信者が亡くなったとされています。
島原半島のキリシタンの大半が亡くなったとされる島原・天草一揆。原城跡も一見ただの小高い丘ですが、命を賭して信念を貫いた当時の人々に想いを馳せると、逆に何もかもがなくなってしまった姿こそがその凄惨さを物語っているとも言えます。
島原半島はこの一揆でキリシタンがほぼ壊滅したため、人口が急激に減りました。そのため移民を受け入れる策がとられ、全国各地から移り住んできた人がたくさんいます。そのうち小豆島から渡ってきた人によってもたらされたのがそうめんの文化とも言われています。
「島原と言ったらそうめん」という今では当たり前のようなことも、実は歴史が大きく関係していたのだな、と、この穏やかな海を眺めながら激動だったであろう当時のことを想像し、様々なことを感じました。世界遺産登録候補である今のうちに、静かにその歴史に寄り添ってみることもひとつの旅の目的になるように思います。
 
南島原市有馬キリシタン遺産記念館

長崎県南島原市南有馬町乙1395番地

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原城跡

長崎県南島原市南有馬町乙

島原といえばそうめん。夏もいいけど、冬のそうめんもまた格別なんです

そんなキリシタンの歴史と関係の深い島原手延べそうめん。夏のそうめん流しが定番ですが、冬場のそうめんもまた格別です。お昼ご飯に、古民家づくりで雰囲気の良い南島原の邑居(ゆうきょ)へ足を運びました。
趣のある玄関。杉玉も良い色です。
冬のメニューはお鍋。いろりになっている部分が、夏場は流しそうめんになります。
南島原の特産である無菌豚「芳寿豚」と自生のクレソンのお鍋でした。
この無菌豚、悪玉菌の保有数がマグロのお刺身以下だそうです。
 
お鍋の〆は、もちろんそうめん。南島原でそうめんを食べると、「あれ、そうめんってこんなに美味しかったのね!」と驚かれると思います。気候や温度、湿度で絶妙に茹で上げる時間が違うそうで、本場で食べて改めてそうめんの魅力に気づく方も多いようですよ。
デザートは、島原半島の名物、かんざらし。
ころんと可愛い白玉のおやつです。
 
山の寺 邑居

長崎県南島原市深江町戊3988-22

お昼ご飯の後は、雲仙普賢岳の噴火の際に火砕流の熱風に襲われた旧大野木場小学校被災校舎を訪ねてみました。
1991年6月3日、平成噴火による溶岩ドームの崩壊で火砕流が発生し、43名の犠牲者が出ました。火砕流は小学校裏の川沿いに流れたため、小学校に火砕流が来ることはなく、児童や先生は無事に避難することができました。当時の写真が入り口の説明看板に載っていますが、校舎に迫りくる噴煙が、まるで映画でも観ているかのようなインパクトです。
 
当時のことなどすっかり忘れてしまったかのように、穏やかに地域の人々を見守る頂き。普賢岳の噴火によってできたこの溶岩ドームは、噴火が終息した1996年に「平成新山」と名付けられました。当時の普賢岳の1359メートルを上回り、噴火後は1488メートルと半島一の山に躍り出たのです。今は少しずつ縮んでいるようですが、それでも見晴らしの良い日にはまだ煙が出ている様子を確認することができます。
自然の雄大さを感じると同時に、時にとても恐ろしい力を持つのだと体感する意味でも足を運んで欲しい場所です。島原半島の人々の歴史において、火山の噴火はとても身近な問題なのだと感じられると思います。
 
旧大野木場小学校被災校舎 砂防みらい館

長崎県南島原市深江町戊2100-1

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半島まるごとジオパーク!島原半島ぐるり1周旅はまだまだ続きます

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