巨大雄健の童話碑
ここ玖珠町(大分県玖珠郡)三島公園――(略)
百数十年前の文政年間、当時の森藩主久留島通嘉公が京都の大宮御所の庭師を招いて六年の歳月をかけて築造したという。今でも城郭の名残をとどめた名園のたたずまいが、ひそかに迫ってくる。
公園の中央に巨大な石碑が建っている。高さ七メートル、幅二メートル、厚さ一メートルの自然石に「童話碑」の、ただ三文字が彫りこまれている。豪快雄健な筆勢の大文字に圧倒されんばかりの思い。まさに、日本一の童話碑と言っても誇大ではあるまい。
この石碑こそ、「日本のアンデルセン」「日本童話界の父」と仰がれた玖珠町出身の久留島武彦の偉業を記念して建立されたものである。
敗戦のほとぼりがまださめてない昭和二十四年。小倉(北九州市)の地では、いちはやく児童文化の活動が進められていた。九州童話連盟の結成で、その中心人物に阿南哲朗(竹田市出身)がいた。阿南は若いころから久留島を師父と仰いで指導を受けていた。
この年の正月、久留島は小倉の阿南宅を訪問し泊まった。阿南は前々から同人たちの口にのぼっていた思いを述べた。
「先生の口演童話五十年を祝福する記念事業として、ご生誕の地である三島公園に童話碑といったような記念塔を建てたら」
「童話碑とは名案だな」と久留島はニコリと笑った。反対でないことを知った阿南は早速、準備にとりかかった。四、五日して旅先の久留島から次のような内容の手紙が届いた。
「童話碑を立ててくれる事はまことに有難い。しかし次の条項を絶対守ってもらいたい。
一、童話碑には一切私に関する碑文のようなものは書かないこと。もちろん久留島の名前もいれてはならぬ。一、童話碑の文字は、私の尊敬する鶴見総持寺の管長・高階瓏仙禅師に揮毫を仰いでくれ。私からもお願いしておく」
いつの世にも自分の名のみを売りこもうとする者が多いのに、何という謙虚で奥ゆかしい真情かと、阿南は胸にジーンとくるものを感じたという。かつて久留島が名誉校長をしていた梅香女子専門学校が玖珠町にあった。久留島は入学式の告辞に必ず次の古今集の歌を引用した。
躬恒の作である。
春の夜の閣はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる
目立たないでいい、清楚な香気を漂わす人になれという彼の信条の吐露であった。童話砕に久留島の久の字も入れるなといったエピソードと思い合わせると、彼の深遠な人柄がひとしおしのばれてくる。久留島の童話文学は、話す声、その響きを生命にした。彼が文字に書き残した童話はほとんどない。高階禅の教える、不立文字の精神であったのか。
碑石は、この庭園が造られた文政の当時、日出(速見郡出町)の海岸から運んできた巨大な船つき石であった。これを掘り起して建てるのは難工事であったが、日田の知友草野忠右衛門が自ら買って出た。忠右衛門は毎日、手弁当で日田から通い、地元の人々の協力を得て三カ月でみごとに完成させた。
昭和二十五年の「子どもの日」、五月の青い風をいっぱいにはらんで大空に遊泳するコイのぼりの林立する中で、章話碑の除幕式が挙行された。これを契機に日本童話祭が発足。四十九年の第二十五回童話祭には、はるばるアンデルセン誕生の地、デンマークのオーデンセ市から市長ダルスコフらが参加、祭はもはや国際的な行事となった。
「童話の町づくり」「読み聞かせ運動」ー久留島の残したお話し文学の灯は、この童話碑を拠点にして今再び全国各地で燃え上がろうとしている。
「文学碑の旅 西日本」
西日本新聞社編