司馬遷の「史記」に徐福という神仙の術を持った人物が描かれている。
今から約2200年前、秦の始皇帝は徐福に命じ不老不死の薬を求め東方の桃源郷に向かわせた。徐福に、童男童女3000人、稲を含む五穀の種子と進んだ農耕器具や生産技術(五穀百工)を与えた。不老不死への期待の大きさと権力者の執念の強さがうかがえる。
ところが徐福はついに帰らず、「平原広沢」(「史記」よる)にとどまって王となった、と。
この徐福の伝説は日本の海岸線はもとより、山梨、長野など海に面していない地域にもある。日本のあらゆる地域に伝えられているものと見てよい。徐福の実在については証明するものは何もない。ただ、史記の記述は実在の人物に基づくことが多いので、実在の人物ではないかとされている。
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1982年、中国人学者が偶然、現在の中国江蘇州に徐福村を発見したことから新たな展開につながった。この徐福村があの徐福が住んでいた村だという。そこに住む人々の先祖に徐福という人物がいて、不老不死の薬を求め東方に行ったまま帰ってこなかったことが系図にちゃんと残されているというのだ。
一方、日本側に伝わるさまざまな伝説の中から、秦(はた)と呼ばれる姓は秦(しん)の時代に渡来した人のことで、羽田、畑という姓も同じ、という。そして、弥生時代の稲作についても徐福が大きく関わり、日本の国づくりにも大きな影響を与えたのではないか、と。
稲の伝播についての最近の研究からも、朝鮮半島経由とされていた従来の説も、ほぼ同じ時期に、中国大陸から直接日本列島の北九州や鹿児島などの太平洋沿岸にもたらされていたらしいという。
大陸からの漂流物は九州の各沿岸に漂着するほど条件は整っているし、徐福伝説の信憑性ならまず大陸に一番近い場所、北部九州からたどってみよう。
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この稿を書いているとき、たまたま、西日本新聞社が「よみがえる徐福」のタイトルで特集を4日間にわたって(平成18年9月12日から)編んだ。
日中交流の使者、観光の象徴として徐福にSPOTを当てた。"本場“中国寧波市一帯に「徐福村プロジェクト」が展開している。その成り立ち展望、意義を詳しく報じた。
それによると徐福が日本へ船出した寧波市の達蓬山の山腹に残る岩絵が徐福船出の図であると注目されるようになった。寧波から黒潮に乗ると三泊四日で九州へ着くという。徐福の解釈も新しくなった。「友好の使者」である。
「新天地を求めての移民説」、「稲作文化の使い手」などなど‥‥。そして、現在のように日中交流が出来る世になったから、お互いの学術調査も出来るのだと、中国の関係者は今からの展開に胸膨らませている――という記事だ。
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伝説が実在の開拓者、英雄へと変る日も近い。先述のプロジェクトは150億円かかる巨大なものという。
楽しみだ。本場中国と、九州各地の徐福の地が結ばれていく、旅が目指す"交流“の意義はまさにそこにある。