山中、嵐に遭難した徐福は八女市山内の人たちに助けられ、手厚い手当てをうけたが、甲斐なく最後を迎える。ついに不死の薬は得られなかった。しかし、この土地の人々の親切に感謝し、息を引き取ったというのが、童男山だったという。毎年1月20日に徐福の霊をなぐさめる祭り「童男山ふすべ」が行われる。
徐福は上陸の証としてビャクシンの種を植えた。ビャクシンは元来暖かい地方の樹木で、国内に自生することはない。樹齢2200年と推定される古木は珍しく、徐福伝説とも年代が合う。
吉野ヶ里遺跡から発見された絹や人骨などは、中国と深く関わっていたこともわかってきた。徐福の子孫や同行してやってきた人々が吉野ヶ里に住み着き国を築いたのかもしれない。
徐福は蓬莱山に似ている金立山に向けて出発した。しかし、道が荒れ、歩くのに苦労した。そこで布を敷き歩きやすくしたが、ちょうど千反の布を使い切ってしまった。そこを千布(ちふ)という。
徐福は道案内を頼んだ源蔵の娘阿辰(おたつ)と恋仲になる。しかし、「5年後に戻る」という伝言が「50年後」と誤って伝えられ、悲しみのあまりお辰は入水したと伝えられている。金立神社のお辰観音はこの悲恋に由来する。
上陸した一行は生い茂る葦を払いながら進んだ。片側だけを払ったので、以来寺井津あたりの葦は片葉となった。
徐福の一行が井戸を掘り、汚れた手を洗ったので「御手洗井戸」というようになった。
武雄温泉を見下ろす蓬莱山は徐福一行が仙薬を捜し求めた山としても有名。
武雄市のここも仙薬を探した山とされる。「阿房宮朝硯」と書かれた硯が発見された。阿房宮は始皇帝が建てた宮殿であることから徐福がこの地にいたことを示すものではないか、とも考えられている。
黒髪山南東の武雄市にあり、徐福が祀られている。