何も、むつかしく考えなくてよい。埋蔵金物語の元祖は、「ここ掘れワンワン」と鳴いた、あの花咲爺の物語の犬であろう。童話が元祖であると思うとスーッと気が楽になってくる。
それにしても、この花咲爺の作者は誰なのか‥‥想像力と創作力と勧善懲悪の善と仁の思想の持ち主に違いない。きっと私たちの祖先、お爺さんのお爺さん‥‥のずーっと先の人は、そんな善良な人ばっかりだったのだろう。
ところで、歴史的事実に従って述べると、世に知られる探検家にシュリーマンがいる。彼は、物語りとして語られていたホーマの詩を歴史的事実に違いないと確信してその存在の発見に生涯を賭けた。結果トロイ(ヤ)の遺跡を発見した。
さて、地球上では、不可思議な謎が、まだ多い。ピラミッドはじめイースター島の巨人像、ナスカの地上絵、ダッシリの古壁画、‥‥各大陸に散在している。
埋蔵金伝説は、それ以上に数多く、世界に、日本に伝えられてきている。
学生時代に、こんなことを習った。歴史=HISTORYというのは、STORYが入っている、ストーリー=物語りがあるから。歴史を物語りと思わないと、無味乾燥となってしまう。と、HISTORYのHIは何を意味しているのか忘れたが‥‥。
歴史は、与えられた僅かの資料をもとに組み立てられていく作業。与えられた資料(点)が二つだからといって答は直線を描くとは限らない。3点だから三角形を描けば正解というわけではない。描くべきが、直線か、三角形か、又は円か自由自在…だから面白い。――歴史の先生が、そう語ってくれた。
そうだと思う。資料が完璧ならば、歴史の説明は誰がしても同じものになってしまう。
料理のレシピと同じである。レシピは、すべて一緒であるが、味付けが違うことで、うまみも、おいしさも出てくるものだ。
歴史は、物語の糸と、史実の糸が縄のように捲り合わされて、或いは緯糸と径糸が交じりあって、ストーリーが作られていくもの――と解釈するなら、推理と想像と空想とが入り混じって、とっても楽しい。
先生の話を聞いて、それまで無味乾燥だった歴史に興味が出てきた。勢い余って、年号を記憶する努力を怠ってしまったが。
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点と点を直線で結ぶのが歴史ではないという説に立てば、モーゼがシナイ半島から空を飛んだか、「天の磐船」で海を渡ったか知らないが、日本にやってきて、天照大神から十戒を賜わり、東北の池にその霊所があり、十字架が祀られている、という話も肯定できる。
それが史実か、どうか、議論するのはコチコチ頭のデジタル人間といってもいい。そんな人は、勿論、当初から埋蔵金なんか見向きもしないだろうが――。
だが、しかし、である。
「埋蔵金」は、全くの空想ではない。先に述べた、史料の「点」が、あるものもある。ただ、支点(史料)になる「点」の数が少ないだけなのだ。即ち、研究がなされていないだけなのだ。というよりも「埋蔵金」を否定できる根拠は何もない。根拠(証拠)がないからといって否定してしまうのは学問的態度ではない。それが現実であり、歴史的事実である。
「伝説」の定義は、こうなっている。「本当か嘘か、嘘とは判らないけど、本当にあったこととして信じて聞くこと」と。
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「埋蔵金」と「歴史」と「物語」との三つの支点で、新しいロマンに挑むことをお祈りする。