宮崎県椎葉村は、寿永4年(1185年)、長門壇ノ浦の合戦で源氏に敗れた平家一門が住んだ「隠れ里」の一つといわれる。そしてこの地に悲しい悲しい物語が語り継がれている。
山また山の尾根づたいに椎葉の山中にたどりついた平家の一門。都の夢もいまは遙かに、鳥獣を追い草の根をかじって細々と暮らしを営んでいた。しかし、この隠れ里も源頼朝に知れ、屋島の合戦で弓の名手として名を上げた那須与市宗高が平氏追討を命じられる。ところがたまたま病の床にあった与市の代わりに、弟大八郎宗久がその命を受けた。
元久2年(1205年)、手勢を率いて九州に下った大八郎。険しい道を越え、やっとの事で隠れ住んでいた落人を発見した。しかし、かつての栄華をよそに、ひっそりと農耕を営み暮らす平家一門の姿を見て、哀れを覚えた大八郎は、幕府には討伐を果たした旨を報告してしまう。
その後、大八郎はここにとどまり屋敷まで構える。そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農耕の方法を教えるなど彼らを助け協力しあいながら暮らしたそうだ。
やがて、平清盛の末裔、鶴富姫と出会うのである。いつしか二人は恋に落ち、永住しようと思っていた矢先、鎌倉から即刻兵をまとめて帰れという命令が届いてしまう。そのとき、すでに身ごもっていた鶴富姫。しかし大八郎は平家の娘を連れて帰るわけにもいかず、別れの印に名刀「天国丸」を与え、「生まれた子が男なら我が故郷下野の国へ。女ならこの地で育てよ」と言い残し、後ろ髪をひかれる思いで椎葉を後にするのである。
生まれたのは女の子。大八郎の面影抱きながら大事に育て、後に婿を迎え、那須下野守という愛する人の名前を名乗らせた。以来、那須の家は連綿と今日にまで続いている。
この悲恋を伝える「ひえつき節」も名高い。日向は民謡の宝庫で、労働唄・行事唄・童唄など今でも100以上残る。なかでも広く知られているのが「ひえつき節」。耕地に乏しい山間の人々が、米や麦にかえて主食としたヒエやアワをつくときに唄い、現在にも伝わる。昭和15年頃、故長友勝美氏によって唄いやすく変えられた「長友ぶし」といわれる。
庭のさんしょうの木 鳴る鈴かけて ヨーホイ
鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれヨ
鈴の鳴るときゃ 何というて出ましょヨーホイ
駒に水くりょと いうて出ましょヨ
和様平家の 公達流れよ ヨーホイ
おどま追討の 那須の裔ヨ
那須の大八 鶴富おいて
ヨーホイ
椎葉たつときゃ 眼に涙ヨ
泣いて待つより 野に出てみやれ ヨーホイ
野には野菊の 花ざかりヨ
那須大八郎と鶴富姫が住んだとされる屋敷。4部屋が横一列に並び、その前に1間幅の前室を設けている。この寝殿造り様の間取りは、椎葉に独特のもので、神楽の行事に使うために生まれたといういわれる。文永6年(1859)ごろの建築と思われ、国の重要文化財に指定されている。那須家には、那須大八郎が鶴富姫に贈ったという刀・墨付などが、祖先の系図とともに家宝として保存される。
伝説では、那須大八郎が植えたものとしているが、真偽のほどは分からない。別称を「十根の杉」といい、明治4年(1871)まで十根川神社が八村大明神と呼ばれていたことから八村杉になったという。また、近くの八つの村から見えるほどの大木なので、この名があるともいわれている。樹高は約54.4m、根元の周囲は単幹では県内最大で19m、目通り幹囲が13.3m。わが国でも屈指の巨杉で、国の天然記念物に指定されている。