火を噴く山を畏れ敬う、――人の原始の本能であろう。阿蘇山信仰は、火を噴く、火の山信仰から始まった。
日本の「古事記」より七十年も古い中国の史書「隋書」(636年)には右のように記されている。
即ち「阿蘇山あり、其の石、故なくして火起こり、天に接すれば、俗似て異となし、よって祷祭を行う。如意宝珠あり、其の色青く大きさ鶏卵のごとく、夜は即ち光りあり、魚の眼精なりという」。
中国との交流が始まった聖徳太子の時代だ。来朝した隋の使者は初めて見る(聴く)火の山の驚きを倭国伝にこう記している。
新しい中国との交流の接点を千四百年も以前の「隋書」に見た思いだった。
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遣隋使小野妹子が隋に渡ったのは六〇七年、その翌年に答礼の使者が来朝している。「よって祷祭を行う」とあるように、火口への祈りは既に六世紀か五世紀には行われていたとみてよいだろう。
その姿と心は、いまも生き続けている。
火山の多い日本だが、このような火口への神の儀式は、聞かない。阿蘇独特の祭事といえる。そこに阿蘇の阿蘇たる由縁がある。
一方、神道とともに仏教が興ってきた。
西巌殿寺の故・鷲岡慶照住職によると神亀三年(726)印度のバイシャリ国の太子最栄読師が「東方に火を噴く霊山あり」と法華経を携えて阿蘇に入山し、火口の下の岩屋(岩窟)にこもり経を唱え、自ら十一面観音菩薩を刻んで、阿蘇大明神即ち阿蘇開拓の祖として崇められる健磐龍命の変身であるとした。
やがて、いまの、阿蘇山上神社あたりに最栄は坊(小屋)を構えた。坊を中心に古坊中一帯に三十六の坊と五十二の庵がひしめきあう一大霊場となっていく。
かくて、古坊中は常時三~四00人の修行僧がなりわいを営み香煙たえることない霊場となった。
草千里ヶ浜は当時の菜園であった由。くらしに欠かせない“水"も長善坊の井戸が主水源で、その井戸跡が谷川のほとりに残っている。(いまその跡は吸水ポンプ場になっている)
天正年間、豊後大友宗麟とこの地方の豪族阿蘇家との戦乱にまきこまれ、神亀年間から数えれば八五〇余年続いたここ古坊中もその軍蹄の前にあえなく一本一草を残すのみとなった。