西郷隆盛はその生涯の後半、維新改革の功績と西南戦争での信念が大きく歴史を動かしただけにその方に眼がいくのは当然だが、“島流し"の時代(この時代は彼の人間形成に大きな影響を与えている)はあまり知られていない。
二度、謫居、配流の身になった。彼は三つの島を配流された。
最初は安政6年、奄美大島へ。文久元年に赦免となったが、再び翌2年に徳之島へ、翌年に沖永部島に移され元治元年までそこで過ごした。33歳から38歳までに当る。
その頃隆盛は菊池源吾と名乗っていた。彼のルーツは熊本県菊池に在る。菊池市七城町にはそのことを示す大きな碑が建っている。おそらく、ルーツ菊池を思い浮かべ別姓としたのだろう。「流謫中の彼は謹皇の志士ではなく一個の人間として日々の暮らしの中にとけこんでいた。南島の自然の中にあって思いきり呼吸したかったのであろう」(尾崎秀樹)
ところで奄美大島で過ごした地は「龍郷町」。平家落人伝説も残るが、西郷南洲謫居跡が残されている。庭には勝海舟の碑文が建つ。彼はこの地で龍一族の娘・愛可那との間に一男一女をもうけているところから察して、それなりの暮らしにあったことが想像できる。「七人扶持十二石の藩米を支給されていた」「暇があると川へ出て鰻をとり、笠利湾に舟をうかべて魚を釣った。……愛可那とは鰻をとりに行く途中のことだった。彼女は畠で芋を掘っていた。口の重い西郷は普通の状態ならば女性にきやすく話しかけたりはしなかったであろう。しかし流謫生活の侘しさから何となく口をきき次第にしたしみあうようになった」。と尾崎秀樹氏は書いている。恐らく島の云い伝えをもとに書かれたのだろうが、今も西郷伝説は崇拝のもとに島で語り継がれている。
ところで西郷と愛可那の一男菊次郎は西南戦争で重傷を負ったが、後年、京都市長になった。
一女、菊子は西郷家と縁戚関係にある大山家に嫁いだが、愛可那は西郷とひき離されて、龍郷町に残り明治36年まで生きた。
西南の役での西郷の死をどんな気持ちで聞いたのだろうか…。
龍郷湾を見下ろす家跡近くのソテツの自生地を歩きながら、ふと愛可那とはどんな女性だったのだろうかと思う。
× ×
西郷は徳之島では岡前集落に出閉され、沖永部島では和泊の地で悲惨なくらしの中にあったようだ。あまりの厳しさに、役人も見かねて、自宅に寓したたといわれる。
西郷は元治元年二月に赦免され維新変革の渦中に巻き込まれていく。
南の島での合計五年間の生活は彼の人間形成にどう影響したのか、そのことに深く触れたものはない(ようだ)。
しかし、西郷死して一世紀以上、今も慕われる彼の人間像と彼の「敬天愛人」の思想の土壌になった島々であることは否めない。
偉人の生地を訪ねる旅のしめくくりに奄美の島々を入れてもよい―と思う。