幕末から明治維新へと近代化の波が訪れた日本。大隈重信ら佐賀の七賢人たちはその中心的な役割を果たした。彼らの基礎となるもの、それは佐賀藩の弘道館教育だった。
長崎の警備にあたっていた佐賀藩は、1808年イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した時に、財政難のため手薄な警備で防衛の任が果たせなかった。佐賀藩のこの苦い経験は「世界の中の日本」という視野を持って物事を判断できる人材養成と軍事力強化の必要性を感じさせることになった。
ペリー浦賀来航より45年も前のことである。
藩校弘道館の改革は佐賀藩に脈々と受け継がれてきた「葉隠武士道」が一面に持っていた閉鎖性、独善性を見直すことから始まった。
「学政管見」を基に教育改革を行い、学問に絶対的な信頼を寄せた。
これを後押しする10代藩主直正は、弘道館の全寮制をとり前藩士の子弟を25歳まで徹底して教育した。課業に合格しないものには、罰金をとるという厳しさだった。
また、直正は、いちはやく英学を取り入れた。
他藩への遊学や海外への留学を積極的に勧めた。
直正が整えたこうした先進的な環境の中から、近代日本をリードする偉人たちが生れたのである。
佐賀藩10代藩主。諸藩に先んじて西洋文明を取り入れ、反射炉の建設、大砲の鋳造で全国に名を馳せた。
藩校弘道館の拡充などの功績は大きい。維新後、新政府の議定、北海道の開拓史長官など歴任した。
維新後、初代司法権の独立、司法制度の基礎を作った。参議となったが、明治6年の政変で下野。佐賀戦争(佐賀の役)を指導した。
江藤新平と連名で江戸遷都を岩倉具視に建白し、東京府知事となる。のち初代文部卿になり、明治の教育制度の基礎を作った。
早稲田大学創立者として有名。維新後は財政、外交方面で活躍し、民部大輔、大蔵卿、外務大臣など歴任。内閣総理大臣を2度務め、民衆政治家として人気を得た。
明治政府の参与、外務卿として活躍。外交官としての手腕は世界的に評価された。1874年板垣退助、江藤新平らと民選議院設立建白書を提出し、その後政治の舞台から降りた。書家としても有名。
安政年間、藩主の命で、蝦夷・樺太を二年間にわたり探険した。札幌市街の建設など北海道開拓に貢献。秋田県権令をつとめる。1874年佐賀戦争(佐賀の役)が起きると憂国党を率い政府軍と戦った。
京都、大阪、江戸に遊学。佐賀藩精煉方の主任、明治政府では海軍創設に尽力。西南戦争では博愛社を創立、負傷者の救護にあたる。日本赤十字社の父。
葉隠 1700年、佐賀二代藩主鍋島光茂の没後、側役の山本常朝が出家し隠居した。常朝を敬慕していた同藩士の田代陣基が1710年隠居先を訪ね、7年間にわたり武士の心構えや生き方を聞き、談話を記録しまとめた武士書が葉隠。「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、猛烈な教訓として有名だが、さまざまな処世や知恵、人生訓が語られ、諸国の大名や藩士の言行、逸話も多く紹介されている。佐賀の歴史、思想、風俗を知る資料として貴重なもの。 |
(佐賀県のパンフレット)