天保以前の武家屋敷の面影を残す貴重なもので、国の史跡に指定されている。二階は重信の勉強のために、母三井子が建造したものといわれる。16歳まで重信はここから藩校弘道館へ通い朱子学を中心とした教育を受けていた。隣接する大隈記念館は、重信直筆の手紙や義足など貴重な遺品や資料が展示されている。
長崎防衛強化のため10代藩主鍋島直正は、1850年に日本初の反射炉を作り、大砲の製造に成功した。1853年にはペリー来航であわてた幕府から大砲200門の製造の依頼を受けるほど、佐賀藩は高い技術力を持っていた。日本最初の反射炉跡にある日新小学校には、反射炉とカノン砲の碑(佐賀県佐賀市)が建てられている。
維新後、大木喬任と共に江戸遷都を建議した。初代司法卿となり、司法権の独立、人権擁護の法制化などに力を尽くし、司法制度の基礎を作った。参議となったが、明治6年の政変で下野。その後、帰佐して佐賀戦争(佐賀の役)を指導した。
1846年につくられた鍋島直正の別邸。当時は迎賓館的機能を有していた。茶室「隔林亭」(佐賀県佐賀市)は「隔林亭文書」の発見を機に1993年に復元された。庭園には多布施川の清流をひいた川や池があり、別邸の床を一条の川が流れ、庭園を曲がって池に流れこむようになっている。公園内には、江藤新平の銅像もある。
16歳のとき、シーボルトの診察を受け、それがきっかけで二人は恋に陥る。女性が出島へ入ることができたのは遊女だけの時代、滝は出島へ入るため遊女の名義を借り、シーボルトのいる出島へ入った。
永井隆博士は原爆で愛妻を失い、自分もまた被爆による白血病と闘いながら、死の直前まで原子病の研究と発表を続けた。『聖書』の「己の如く隣人を愛せよ」という言葉がつけられている。
我が国における西洋砲術の祖の邸宅跡。江戸時代末期、オランダ兵学を学び高島流砲術をあみだした高島秋帆の邸宅跡で、国指定の史跡。現在は、弾薬庫、砲こん石、石垣、ねり塀などが残っている。
●武雄温泉は歴史文化No.15 No.25参照
●長崎市は歴史文化No.18参照