九州の歴史・文化を辿るルーとの設定、物語の解説に際して、私の手許に保存している蔵書をもう一度改めて読み返した。
四百冊を越える。インターネットでは、欲している情報は出てこない。知的欲求を満たす旅は、やはり、昔のしっかりした人が書いた本しか、参考にならないと思った。(異論があるかも知れないが)
西日本新聞社編「西日本文学碑の旅」は一読に値する。この本一冊読破して旅に出れば、九州の文学は殆ど理解できる。
その中から吉丸一昌の項をご紹介する。
立木稠子著
西日本新聞社編・発行
「西日本文学碑の旅」
『早春賦』(中田章・作曲)のさわやかな歌は澄んだ冬の寒空によく調和する。モーツァルトの愛らしい歌曲『春への憧れ』に酷似したメロディーは、日本の風土にもうまく溶け込んで、音楽の普遍性を証明しているが、歌詞の美しさもこの歌の大きな魅力である。
この作詞者が吉丸一昌である。彼の生まれ育った臼杵市は、私の大好きな町の一つである。地味でいぶし銀のような味わいを持つこの町は、不思議にヨーロッパの小都市に似かよった落ち着いた優雅さを漂わせている。
こうした雰囲気の中に生さる人々がその影響を受けぬはずがなく、臼杵の人々は今日の日本には珍しくなった古武士の気骨と、インタナショナルな合理性を持っているように思える。遠く藤原時代にまでさかのぼる石仏で有名なこの町は、また古くから多くの文人を輩出した文化都市でもあった。こうして近代史に浮かび上がってくるのが、作家野上弥生子と同門(臼杵の国文学者・久保千尋の私塾)の、吉丸一昌なのである。
明治六年、臼杵の稲葉藩の小吏の家に生まれた吉丸一昌は、小学校時代から成績抜群であった。後に彼は稲葉家の奨学金を得て苦学しながら大分中学、第五高等学校、東大国文料へと進む。当時、彼の一家は母の針仕事で支えられていた。彼の多くの詩に母への敬愛がにじみ出ているのは、こうした生活感情の自然なほとばしりであったろう。
東京音楽学校(現・東京芸大)の国文学の教授として招かれたのは明治四十一年のことである。ここで彼は水を得た魚のように、多岐にわたる活躍を開始する。その最大の功績は、唱歌を数多く世に広げたことであろう。若い作曲家の協力を得て「新作唱歌」六巻(大正二年二月刊行)、すなわち一年から六年までの小学唱歌を世に送った。
これが当時の子供たちの教育にいかに大きな影響を与えたか計り知れない。
また吉丸一昌は、ドイツ民話「故郷を離るる歌」(園の小百合、撫子、垣根の千草‥‥)の詩や数多くの校歌の作詞者としても、つとに有名である。充実した人生を生き急ぐかのように、彼は大正五年三月七日、四十三歳で急逝した。
春は名のみの風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
北アルプスをのぞむ長野県・安曇野(南安曇郡穂高町)の風景を思い浮かべて書いたといわれる一見のどかな田園詩だが、私にはそれ以上のもの、吉丸一昌の人柄がしのばれるような気がする。