英彦山について詳しく学びたい人には、「英彦山と山麓物語」白石直典著・西日本新聞社刊を一読することをおすすめする。
その中の庭園の章から引用させて頂いた。
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英彦山にはなんといっても雪舟が作ったと伝承されている旧亀石坊の庭があるので、画聖といわれた雪舟については、どうしてもここで一言のべておく必要がある。藤岡大拙は『探訪日本の庭 山陰』(小学館)の中で「確証はないが、雪舟の年代、山水画の技法と石組などからみて、常栄寺(山口)、旧亀石坊(福岡県英彦山)、万福寺(島根県益田)、および医光寺(島根県益田)については、ほぼ雪舟の作庭であろう」とみている。また、重森三玲も『日本庭園史大系 第七巻』の中で、「旧亀石坊の庭は常栄寺の庭と手法が酷似しているので、伝承を問題にするまでもなく雪舟の作庭と信じられる」とのべている。次に古いところでは、『添田町史』に岡山県総社の薬種業者古川古松軒が天明三年(一七八三)五月三日に英彦山に登山したと記録しているが、そのとき、彼が書いた『西遊雑記』の中の亀石坊に関する部分を、福岡県出身の作家岡松和夫氏が『探訪日本の庭 九州・四国・沖縄』(小学館)の中で論評している。それによると「古松軒の見たものは雪舟の庭といわれながら、今は滅んでいる別の庭だったかも知れぬ。石橋もない・・・」とのべ、結局、「私はこの庭が雪舟作かどうかについて分からないままだ」とし、最後に「ただ雪舟の絵の研究者の大部分にとっては、雪舟の作庭が今のところ伝説以上のものではないらしいのが問題として残っている」と結んでいる。私が調べたところ、伝雪舟とされる庭は西日本地区だけでも、山口県に十四か所、福岡県に九か所、大分県に六か所、このうち『添田町史』だけは年表の中で旧亀石坊庭園を文明八年(一四七六)雪舟作庭としている。
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英彦山で見られる庭はいずれも古庭園といわれるもので、江戸時代後期以降から近代にかけての庭などと異なっておもむきが厳しい。そして、旧亀石坊、旧政所坊、旧顕揚坊、旧曼殊院の各庭にある池中に吃立する水分石に私は共通性を見ている。旧亀石坊の庭を手本にしたのではないかと想像する。英彦山では古くは大友氏による山内の破壊、度重なる火災、そして明治維新と災難を受け続けたが、それにも拘らずこれらの庭が生きのびてきたことは奇跡に近い。しかるに、現在、人々にほとんど知られていないのは真にもって惜しい話である。