西郷隆盛。当時ただ一人の陸軍大将であった。
彼はその主張した征韓論が明治政府に容れられず、明治六年郷里の鹿児島に帰っていった。
彼の部下の同じく薩摩藩出身の陸軍少将人斬り半次郎こと桐野利秋、同じく篠原国幹、それに文官の村田新八も彼と行動を共にし郷里に帰っていった。明治維新政府の上層部は二つに分裂する有様であった。
西郷とその同志が鹿児島に帰ってから鹿児島県は明治政府に対してまるで独立したような存在となった。
× ×
東京の明治政府に西郷暗殺の計画があったとして鹿児島の私学校の徒は血気にはやり西郷をかついで上京詰問の名目で鹿児島を出発、熊本へ向ったのは明治十年(1877)
二月十五日のことであった。
出発の時は一万三千名の一行は熊本に到着以後は一万五千にも達した。西郷の行動をきいて九州各地の不平士族が動き出し、熊本で「熊本隊」「協同隊」などが加わったからである。
西郷は熊本城にいた谷干城鎮台司令長官へ宛て手紙を出していた。
「拙者儀、今般政府へ尋問の廉これ有り‥‥旧兵隊の者共随行致し候間、其の台下通行の節は兵隊整列、指揮を受けらるべく比の段照会に及び候也」
彼は堂々と熊本城下を通過し北上を決行しようとしたことが判る。
予想に反して熊本県権令(知事)富岡敬明は多勢の者が武器を持って本県を通ることは許し得ない旨を伝え、明治政府からの指令のもとに熊本鎮台の籠城の決意は全く固められた。
当時城内には熊本鎮台兵をはじめとする軍官民二千八百余と警視局の巡査隊五百人弱の計三千九百余人がいた。
雪の三太郎峠を越えた薩軍が熊本城から7kmの地、川尻に到着したのは、二月二十日のことである。川尻の町は血気たった薩軍で満ちた。
その前日の、二月十九日午前十一時四十分頃、城は謎の炎に包まれた。
強い北西の風にあおられて火は熊本市街へ延焼し、逃げ惑う町民の頭上に無情にも火の粉がふりかかった。
薩軍の熊本城包囲戦はまだ煙のくすぶる二十二日の早暁から始まり、ここに明治の歴史、いや日本の歴史上大きなエポックとなる八カ月間に及ぶ西南の役の火蓋が切られた。
× ×
いま、鹿児島本線と国道208号とに囲まれた小高い丘=田原坂。
何故この変哲もない丘の攻防をめぐって十七日間の激戦が続いたのだろうか。
その疑問に答えるには当時の地形(道路)や状態を考えねばならない。
熊本城に籠城した人々を救うために南下してくる政府軍が南関 高瀬(玉名)から熊本へ入る本道は田原坂しかなかった。
南関から山鹿、植木を経て熊本へ入る道はあったが山鹿には薩軍の猛将桐野利秋が既に陣を張っていた。政府軍の南下を防ぐ為田原坂に陣を築いた薩軍、"刻も早く熊本城を救いたい政府軍とが田原坂で激突したのはそんな背景があったからだ。
× ×
三月二十日、政府軍の総攻撃にさしもの田原坂も陥ち薩軍は木山、矢部、馬見原に退き、さらに人吉を経て敗走の途を辿っていく。
官軍は七方向から人吉の攻略を開始し六月一日人吉に入城し薩軍は加久藤、小林方面へ敗走した。
薩軍が小林方面に退いたのは既に鹿児島は官軍の一部により占領されていたためで、これから官軍は北へ薩軍を追いあげる形になった。
延岡は旧延岡藩の城下町でまだ弾薬等の製造も可能であり、薩軍はここを一大拠点として後図を策することになったが、ここも期待できるところではなかった。
延岡北方に全軍を展開し、官軍と一大会戦を企図し、西郷自ら指揮をとったが、八月十三~十五日この線も崩れ、北方長井村可愛岳を中心に円陣をとり、ここに拠った。
薩軍が長井村に布陣するにあたって西郷は児玉家で軍服などを焼き覚悟を決めた。各地からの協力諸隊に対し今まで労苦を謝し官軍への投降を勧めた。
各隊はそれを入れ涙をのんで官軍に降った。
官軍全周包囲の中で可愛岳にあった薩軍は、八月十六日未明可愛岳の断崖を下り、官軍の不意をついて高千穂方面に脱出し、九州山脈の峻険を潜行して、九月一日突如鹿児島に帰り、域山に立て籠った。