今から約五十年前の昭和三十三年(一九五八年)、新種のコケ「ナンジャモンジャゴケ」が新聞紙上をにぎわし、植物界の枠を超えた世界的な話題となる。これを発表したのが、宮崎県日南市の城下町飫肥にある服部植物研究所だった。
話はさらに昭和二十七年(一九五二年)にさかのぼる。服部植物研究所の代表・服部新佐のもとに、かねてより親交のあった高木典雄名古屋大学教授(植物学)から植物の標本が届いた。北アルプスの餓鬼岳で採集した中にまざっていた未知の植物が、服部の専門の分野であるコケのようだというのだ。服部は日本を代表するコケの専門家。しかし、顕微鏡を覗いて首をかしげた。確かにコケのように見えるが、その特徴はコケとは異なるものだった。それならばと、菌類、シダ類、地衣類、など各方面の学者に確認を求めたものの、皆が「自分の研究分野のものではない」という返事。結局、「これはいったいなんじゃもんじゃ?」ということで、とりあえずナンジャモンジャゴケと名付けられ、服部植物研究所の標本庫に納められたままとなった。
その後、昭和三十一年(一九五六年)に白馬岳でもナンジャモンジャゴケが見つかる。服部は海外の各方面の研究者にも標本を送って意見を求めたが、答えは国内と同じだった。見れば見るほど不思議な植物。服部は研究を重ねていくうちにこの植物がコケ類のコマチゴケ目に近縁の植物に違いないと結論を出した。世界一原始的な植物といっても過言ではない。蘚苔類の中に新たな一目、一科、一属、一種が加わるというコケ学上、今世紀最大の大発見だった。昭和三十三年(一九五八年)、ナンジャモンジャゴケは学会で発表され、世界的な注目を浴びることになった。そして、世界各地に分布していたことも次第に明らかになっていく。
それまでも服部植物研究所や服部新佐の名前は、世界中のコケ研究者の間ではかなり知られた存在だった。しかし、欧米のコケ研究に大幅に立ち遅れているといわれていた日本のコケ研究者が、堂々と学会を揺るがすような発表をしたのだから、感慨深い。そういう意味でも、昭和三十三年は、服部新佐をはじめとする日本のコケ学者たちの地道な努力が実を結んだ記念すべき年と言えるだろう。
飫肥は国の伝統的建造物群保存地区にも指定されている美しい城下町で、江戸時代以降は飫肥杉と呼ばれる上質の杉の産地としても知られる。服部新佐は大正四年(一九一五年)、江戸時代から続く山林王で、飫肥御三家といわれた服部家の長男として生まれた。自然を愛し、植物への興味も強かったようだ。
地図を片手に野山を歩き、珍しい植物があれば喜んで採集して遊んでいたという。しかし、体は弱かったらしく、昭和八年(一九三三年)、宮崎県立飫肥中学校卒業後、宮崎高等農林学校に入学するが、半年で退学。翌年十八歳で、第七高等学校造士館に入学している。
昭和十二年(一九三七年)、東京帝国大学理学部植物学科に入学。両親は家業の役に立つと喜んだらしいが、服部自身は特に家業との関連を考えて学科を選んだわけではなかったらしい。担当教授には林学の研究をすすめられるが、服部が選んだテーマはコケだった。
このころの日本のコケ研究は欧米より百年は遅れているといわれていた。コケの研究の第一歩は、採集したコケを顕微鏡で覗き、文献や標本などの資料と見比べながら一つ一つ名前を割り出していくことだ。服部が自ら「コケの戸籍係」と名乗ったゆえんである。日本には約二千種のコケが分布しているといわれるが、海外の研究者が来日しては採集して持ち帰り、新種として発表していた。日本の研究者がコケの名前を調べようにも資料は海外にあるというのが実状。服部は海外の研究者から資料を借りるため手紙を書き続ける毎日だった。こんなことから始めなければならないほど、日本のコケ研究は手付かずの状態だったのだ。
大学院を経て、昭和十六年(一九四一年)、文部省の東京科学博物館(現・国立科学博物館)に就職。しかし三年後には、郷里の父から帰郷して家業を継ぐように言われる。服部は引き換えに、郷里にコケ研究所を作り、研究も続けるという条件を出した。
こうして山林の一部を研究所の運営資金として譲り受け、昭和二十一年(一九四六年)服部植物研究所を設立。名前をコケ研究所にしなかったのは、植物研究所とした方が財団法人の認可を取りやすいという配慮からだ。当時の日本は戦後の食糧難のただ中で、腹の足しにならないコケの研究ではいつ認可されるか分からない。食糧になる植物を研究するように見せたという裏話もあった。 (後略)
九州旅客鉄道株式会社1997年7月号「プリーズ」物知り学から