師・武蔵-この碑は武蔵の養子の宮本伊織が、父・武蔵の遺徳を顕彰するために建てたものである。 ただのそんじょそこらの碑ではない。
高さ人の背丈の2倍以上、4mを超す。横幅も1.8m前後もある自然石、もっと凄いことは、その碑面に1,100余字の武蔵の足跡を語る文章がぎっしりと、克明に彫り込まれている。 下から見上げる。上段に、 天仰 実相 圓満 兵法逝去 不絶 (天を仰げば実相円満にして、武蔵の兵法は死後も絶えることがない)と解釈したらよいだろう。その一区劃下には兵法天下無双と題されて、次の文章が続く。 「臨機応変者良将之達道也‥‥」以下1,100余の文字が続く。
この碑文は世に「小倉碑文」といわれ、武蔵研究の一級資料とされている。(因に武蔵に関しての資料は極めて乏しい。資料価値のあるものはごくごく少ない)世の武蔵研究者のベースは、吉川英治はじめ、この碑文を下敷きにしている。
武蔵が細川家の客分として迎えられたのは、どのような経緯からだろうか。確とした資料は残されていないが、その経緯を解く重要な「武蔵直筆」の手紙を、熊本・八代市立博物館に見ることができる。
それは松井興長に出した書状である。興長と武蔵は、あの巌流島以来昵懇の間柄にあった。
ここで巌流島の決闘をもう一度、ふり返ってみよう。
時の小倉城主・細川忠興が決闘を許可した。物語には当時の名家老の松井興長(長岡佐渡守興長として記されているが、同一人物である)が決闘の後見役をした。さらに興長は、巌流島に渡る武蔵に船の手配まで慮ってくれた。
- そんなことがあった-
それから二十八年が経った。細川家は熊本に移る(寛永9年・1632)。当時の小倉城主・細川忠興は八代城主に、その子・忠利は熊本城主に。そして松井興長は細川忠興の家老として八代城を預かっていた(忠興没後八代城主となる)。
武蔵は長い昵懇の間柄であり、相談相手でもあった松井興長に一通の書状を認め暗に細川藩への"就職“を託した。
平成6年に八代の竹田家(松井家の家老を務めた家系)の古文書の中から八代市立博物館員が幸運にも一つの書状を発見した。
これぞ間違いなく武蔵の直筆と鑑定され、全国に二通しかない武蔵の手紙(一通は吉川英治記念館)として八代の"宝物“となっている。
武蔵が松井興長に宛てたその書状の内容は「有馬陣中(島原の乱)で音信(贈り物)を賜わったことの御礼」を述べ、島原の乱以前から両者が知己の関係にあったのが判る。「乱後、私は江戸や上方に居りましたが、用事があって、今熊本に来ています。しばらく滞在いたしますのであなた様(興長)にお目にかかりたい」と述べている。細川家への仕官を望んだ武蔵は細川藩に発言力をもつ興長に暗に就職を依頼した。