「茶道の祖」といえば、いうまでもなく千利休を指す。しかし、利休が追求したのはあくまでも「抹茶」を点てる茶道であった。
抹茶に対して、日ごろ私たちが暮らしの中で飲むのは「煎茶」。この煎茶の「祖」といわれるのが、佐賀出身の僧・月海、別名「売茶翁」と呼ばれた人物である。
肥前国神崎郡蓮池で、佐賀藩支城の蓮池城主鍋島直澄に仕える医師だった柴山杢之進のもと、延宝3年に生まれた。9歳で父を亡くし、11歳のときに黄檗宗「龍津寺」に入り出家する。
仏道に精進していた33歳のとき、長崎を旅して、そこで「茶」と出会うのである。この頃すでに、博多の聖福寺や黒木町の霊巌寺などに茶の文化は伝えられていたが、それを味わうのはあくまでも僧侶や貴族など限られた一部の人々であった。
月海が57歳になった頃、寺を辞して京都へ上る。そして数年後、茶道具を担いで嵐山や鴨川のほとりに出かけ、茶莚(移動茶屋)を出して道行く人に茶を供し始める。
その姿勢は、町民、農民を問わず、茶を愛する者にはひとしく広く売るものだった。売るといっても、金のない者には無料である。
「茶銭は黄金百鎰半文銭までくれ次第、ただ呑みも勝手、ただよりはまけ申さず」
茶とは、高価な道具や厳粛な作法で飲むものでなく、貧しい人々も平等に味わうものだと信じる彼の姿勢は、次第に京の都の評判になっていった。
当初の売茶翁の茶の入れ方は、中国帰りの僧や帰化人たちがしていた様に茶葉を煮出すものだったが、寛保2年に宇治の永谷宗円と出会い、急須に入れて湯を注ぐという現在の煎茶道に近いいれ方を究め、さらに普及させていく。
彼のもとには、多くの文化人や学者たちも訪れて清談に花を咲かせた。池大雅、田能村竹田、伊藤若冲といった当時の画壇の大家たちが競って売茶翁の肖像画を描き、「雨月物語」で有名な上田秋成や頼山陽も彼をたたえる詩文や漢詩を書いている。これだけの芸術家に敬愛された人物はそう多くない。
81歳になった売茶翁は、己の寿命を悟り、もっていた茶道具のすべてを焼却してしまう。
「孤独で貧しい私は、春山秋水いずくへもお前を伴ない、そのおかげで飯代を欠くことはなかった。私の亡き後、俗人の手に渡って辱めを受ければ無念であろう」との思いからであった。
茶において一切の権力、財力、加護から離れ、人間の真実の姿で純粋に茶を愛し究めた売茶翁は、89歳でその生涯を終えている。