八幡製鐵所 修繕工場

世界文化遺産 製鉄・製鋼 一般非公開

“鉄は国家なり”旧本事務所は国家プロジェクトを担う指令室として1899年に竣工し、1922年まで活躍した。
当時としてはモダンな建築物で、構造は赤レンガ組みの2階建、延床面積1,023平方メートル(約310坪)、長さ33m、スパン15m、軒高10.38m。左右対称のデザインで中央にはドームがあり、天井の梁は洋小屋組構造(橋の技術を応用した三角形の組合わせで強度を出すクイーンポストトラス型)を採用し、屋根は和瓦葺、外壁の赤レンガはイギリス式のレンガ積となっています。事務所内は長官室、顧問技師室、技監室、主計室などがあり、まさに製鐵所の中枢を担っていました。
1922年に新事務所が完成してからは、研究室として利用されてきましたが、老朽化のため現在は資料館として残されています。

本事務所開設の2年後、1901年官営八幡製鐵所東田第一高炉が完成し、本格操業までには苦難が続いた。
日本初の官営製鐵所は1880年に造られた岩手県釜石製鉄所。だが度重なる失敗に伴い1883年に廃業となり、静岡生まれで薩摩藩ご用達の田中長兵衛が払い下げを受け、翌年より挑戦を開始。失敗を重ねた末に49回目の1886年10月16日、銑鉄生産を成功に導き、釜石鉱山田中製鐵所を設立しました。
次に造られたのが海に面し、石炭の産地に近く、水も豊かにあり、他国から攻撃されにくい戦略的な地として八幡村が選ばれ、官営八幡製鐵所が誕生しました。
1901年東田高炉建設に際し、当時の日本は製鐵の知識も経験も無く、ドイツに設計から建設までを依頼し、操業当初は当時の総理大臣よりも高給で迎えたドイツ人技師や釜石鉱山田中製鉄所の技術支援により運営されていました。
その後、東田第一高炉が本格的な操業に至るまでに3年余が費やされています。

本格操業後は、戦争特需と重工業の発展により官営八幡製鐵所は急激に成長を遂げていった。
日露戦争で鉄の需要が急激に増えたことにより東田第二高炉を建設し、2倍以上の生産体制が可能となりました。戦後は民間からの需要増も重なり、第二次大戦前までは日本の鉄鋼業の過半数を担うまでに成長、1932年に官営から民営に移行され、今は新日鐵住金株式会社に。
東田第一高炉は1972年に役目を終え、今は東田第一高炉史跡広場のシンボルとして親しまれています。

住所 北九州市八幡東区大字尾倉他
お問い合わせ 北九州市企画調整局政策部世界遺産課
電話:093-582-2922
FAX:093-582-2176
利用可能時間 稼働中につき安全上及び機密漏えい防止のため構内入場禁止・撮影も禁止

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