「蒙古は、太鼓をたたき、ドラを打って閧を作る事をおびただし。日本の馬共は、これに驚き、おどりはね狂うほどに、馬をこそ扱え、敵に向はんとする時の遅れけるうちに射かけられる。豪古の矢は短かしといえども、矢の根に毒を塗りたれば、当程の者、毒気に負けずと云う事なし。かくて敵より数百人矢先をそろえて雨の如く射けるうえ、鉾長、長柄、物の具のあき間をさしてはずさず一面に立ちならびて、寄る者あらば中をあけて両方の端を、まわし合せて取り籠んで打ちにうち取る。甲は軽し、馬は能く乗る、力はつよし、命はたがわず、豪勢勇猛自在きわまりなく、よくかけ引きせり、大将は高き所にあがりて、引くべきには逃鼓を打ち、馳すべき時には攻鼓をならし、それにしたがいて振る舞えり、その引き時に鉄砲とて鉄丸に火を包んで烈しくとばす、あたりてわれる時、四方に火炎ほとばりして、煙をもってくらます、又その音、はなはだ高ければ、心を迷はし、肝をけし、目はくらみ、耳はふさがりて東西を知らずなる、これがために打たるる者多かり。」(元寇・八幡 童記)
激戦地となった福岡市で、700年以前の故地を巡るのはむつかしい。主戦場の今津、百道、 原、赤坂、箱崎‥‥の地は、今はビルや住宅地。
でも有難いことに、ポイントポイントに碑や、手がかりになるものが残されている。
それらを紡ぎながら、日本の一大事・国難の歴史の地を訪ねてみよう。
志賀島には、蒙古兵220余人の供養塔はじめ火焔塚が建っている。蒙古船の碇石は筥崎宮、櫛田神社、太宰府天満宮に置かれている。櫛田神社には、敵国降伏の勅願石が残る。
当時盛んに行われた敵国降伏祈願、ゆかりの日蓮上人と亀山上皇の像は東公園に。日蓮上人の台座には戦いの状況が克明にレリーフされている。
亀山上皇は自ら「敵国降伏」の文字を書かれ神に祈られた。その文字は筥崎宮の勅願として残る。九州各武将に割り当てて築かせた博多湾沿いの石垣(後に、元寇防塁と呼ばれた)も、西新、今津地区に大切に残されている。
西新町に近い 原山にも、碑が立つ。
この地から眺めると、元軍が上陸した室見河口や百道一帯が望める。今は埋め立てられ、ドームなどが立ち並ぶが一帯はまぎれもない「古戦場」‥‥。心眼を開いて見ることが大切だろう。残された史跡に限りがあるなら、博物館でじっくりと学び知ろう。元寇史料館、福岡市博物館、そして太宰府の九州国立博物館でゆっくりされることをおすすめする。