ルイス・フロイス(ポルトガル宣教師)は30年余日本に滞在し、信長、秀吉の為政者はじめ庶民との交流があった。
日記をもとにしたその報告書は膨大である。晩年は精魂を傾けて「日本史」(中央公論社)を書いた。全12巻に及ぶ。
「日本史」から次に引用した文は秀吉のキリシタン弾圧にからむ「天罰」にふれていて興味深いし、当時の世情が窺える。ここでは異教師とは日本仏教徒のこと。 いずれも事実と一致するが、日本では余り知られていない。
宣教師が見た日本のリアルな表現として日本の歴史と合わせ鏡で読むとよい。
「その最初の罰は、(日本暦の)七月十六日、(すなわち)我らの(暦に換算すると)九月二十二日か二十三日のことであるが、(関白)が長崎の教会を破壊するよう命令を下した同じ日に、彼の母は都において息をひきとった。彼は母の臨終に立ち会うことができず、それを切望していた(だけに)いたく悲しんだ。
第二の(罰)は、(関白が)名護屋を発って都に向かう途中、彼の乗船が暗礁に乗りあげて、ほとんど絶望的となった。彼は裸になって船からその岩の上に飛び降りた。船頭は切腹した。(閑白)は別の船に救助されたが、これらの異教徒たちは非常に迷信深いので、(関白)も他の者も、この事故を凶兆と見なして、すこぶる不機嫌になった。
第三の(罰)は、朝鮮から幾多の悪い報せが届いたことである。というのは、朝鮮人たちは勇気を挽回していき、海上では(日本の)一大艦隊を壊滅させ、多数の兵を殺戮し、三百隻以上の船舶を失わせ、陸上では関白の甥に委ねられていた八つの城を奪還し、(その際)同じく多数の兵を殺し、日本人に対して優位に立ち始めたからである。このために、またひどい食糧不足のために、日本人(の間で)はおびただしい死者や病人が続出し、大勢が日本に逃げ(帰っ)た。ここでもかしこでも(というように)もはや日本人はこの朝鮮遠征に成功する見込みを失ってしまった。それは関白にとって堪え難い苦悩と屈辱であり、彼の名誉を蔑ませ名声と評判を失墜させるものであった。
第四の(罰)は、近江の国にあり、都から四里(離れたところにある)三井寺という一寺院の、非常に大きく日本(中)でも有名な鐘に生じた奇怪出来事である。その鐘は、本来ならば非常に大きな音を響かせるはずだが、ここ数日来、その音を失って、どんなに打ち鳴らしても、まるでコルクの木皮のように音を発しなくなった。それは都のほとんどあらゆる人たちが出かけて行って確かめた、ごく真実のことであった。人々が言うところでは、かつて或る時にもその鐘に同様のことがあり、(それは)天下、すなわち日本国中に大いなる変革が起る前兆だということである。このことから、(また)あれこれの諸事情、とりわけ朝鮮における悪い結果を見ることによつて、
(人々の間では)かの(関白という)異教徒の暴君的権力が終りを告げるのはほとんど確実であるとあまねく信じられていた。さらにデウスは、彼をしてその有する主要な人物をことごとく朝鮮に出動させるほどの盲目に陥らせ給うたようであった。」