発刊朝日新聞社(朝日文庫)
—以下、その一部を抜粋しました—
——芭蕉と奥の細道を同行した曾良は、芭蕉の死後16年も生きた。曾良は幕府巡見使の一員として壱岐に来た。——
●巡見使とその随員一行が壱岐の勝本でとまったのは、一泊だけである。かれらは海産物問屋の中藤家でとまり、翌朝、船に乗って対馬へむかった。
病人の曾良だけが、中藤家にのこった。そのまま起きあがれず、宝永七年(一七一〇)五月二十二日、他家の病室で死んだ。(中略)
曾良の墓は、その最期を看取った中藤家の墓地にある。墓石は海を背にしている。
当時、一般に墓石は小さかった。曾良の墓も小さい。私の想像のなかの曾良も、小柄で痩せて、手の指なども小枝のようであったかと思われる。若いころから胃腸のわるかった人らしく顔色も冴えなかったにちがいない。このため枯れ苔でおおわれた墓右の前に立つと、曾良そのひとがそこに居るようにも思われた。
●午後になっても、空の青さがつづいている。
古代からの青さのようでもある。壱岐勝本ほど文献的に古いみなとは類がすくないのではないか。
晴れているせいか、港の景色はあかるい。町並に入ると、建物のほどよい古びのために、むしろ雨の日に来れば夢二の室津のような印象になるのではないかと思われた。
町並を軒づたいに歩いていると、ときに驚くほど室津に似ている。古い海駅というのは、どこか共通のにおいが溜まっているのかもしれない。
●海神神社は、伊豆山の山頂にある。山頂への道は堂々たる石段で、登るのが大変だが、ただこのような土地にこれほど贅沢な石段が造営されていることにおどろかされた。
御前浜に面した大きな鳥居をくぐると、森になっている。平坦な道を歩くうちに、石段になる。山腹を大きく削って石段をたたみあげて行ったもので、隅角まできてやっと山頂かと安堵すると、方角を変えてあらたに石の階が天にのぼるような勢いで重ねられている。
はるかに巨済島に面したこの僻陬の地にある神社など、知る人はすくないにちがいない。
●「対馬には、ほかにもワダツミ神社がありますね」‥‥(中略)‥‥
上県の豊玉町という地に、やはり海に面する丘の上にある。
和多都美神社という。仁位というのも古い土地で、『延喜式』に記載された古社が三つもある。
ところで『延喜式』にある対馬の上県の和多都美神社とは仁位のそれを指すのか、この木坂の海神神社をさすのか、よくわからない。江戸末期から両社のあいだで論争があったらしい。