秀吉の軍勢が島津攻めにこの道を駆け抜けた。 加藤清正は戦略上から要所に切り通しを施した。 細川忠利公は、この道を下って小倉城から熊本へ入国した。 細川、島津、相良各藩の参勤の大行列が行き来した。 西南の役では後の乃木大将は幾度となく往復した。 街道をゆくことは、過去と現在とを肌に触れることだろう。 |
熊本(市)を中心にして大きな陸の道は四つあった。
熊本から北上し、南関で筑後(福岡県)に入り筑前を経て豊前・小倉(北九州市)に至る「豊前路」。「豊後路」と呼ばれる東への道は阿蘇を越え豊後の国・久住〜野津原を過ぎ鶴崎(大分市)までの道。
南の方へは八代〜水俣を通り鹿児島(薩摩)へ向う「薩摩路」。あと一つは矢部〜馬見原を越え日向の国へ至る「日向路」。
この四つの道を主要往還として人が行き来し、物資が運ばれ、文化が運ばれてきた。
近世になってこれらの道は参勤交代道として使用され、街道と呼ばれ大きく発達していく。
参勤交代道として豊前街道をみてみると、細川藩は参勤(江戸へ)には四十回、下国(江戸↓熊本)には七回、合計四十七回使用している。(豊後街道は合計九十七回)。
勿論、人吉相良藩も、薩摩島津藩も参勤の往復には豊前街道を主に使っている。
こうした大名行列の休憩所や宿場として街道の要所要所には集落が開け、人が交流し、その土地固有の産業や文化が育っていった。
昔の山鹿の繁栄ぶりは「惣門」を起点に続く下町、中町、九日町、上町への商店筋に今もしっかり残る。
まず伝統ある酒蔵の千代の園酒造、丸い酒林の玉が下がり、どっしりした蔵が奥深く続いている。向いには、酒蔵資料館。地酒は、まちの個性の表れでもある。酢やコウジや味噌づくりを営む江戸期以来のお店。由緒あるお寺・光専寺、火除けのお地蔵さんなどが並ぶ道筋は豊前街道の主要な宿場町としての誇りに満ち溢れている。
冬の朝歩くと、流れ出たお湯の湯煙りで道は白い煙が漂い、「湯の町だなー」と感じる。
湯の町の実体験は九日町の入口にある湯の端公園の「あし湯」。観光客の皆様に足の疲れをいやす足だけのお風呂場。老若男女、足の混浴が楽しみ。
どのお店も間口は狭いが奥がとっても深い。「税金は間口の広さで計算されていたのでそうなっているのです」と案内の方が笑わせてくれるが、一軒一軒の商家の奥まで入り込んでみたい思いになる。
名物の灯籠祭りの日には道は灯籠踊りの行列が賑やかで歩けなくなるほど。
旅先案内人も山鹿の名物です。地元のボランティアの人たちは県の「くまもと観光賞」を受賞しており、心くばりのある案内が楽しめる。