平成十年十二月五日、「異文化の情報路・長崎街道」シンポジウムの会場となった大村市体育文化センターのメイン・アリーナは、市内外から参加された千三百人の聴衆で埋められた。
シンポジウム終了後、丸山雍成先生がもらされた一言は、今でも鮮明に覚えている。「道の専門家として全国さまざまな講演会やシンポジウムに参加させてもらったが、文化論や文明論を語ることができるのは、唯一、長崎街道だけではないでしょうか」と。
すでにお気づきのことと思うが、このシンポジウムの目的はまさにそこにあった。
九州北部三県にまたがる長崎街道を切り口に、地域の歴史やありようを見せ、現在の地域と社会に問題提起してみたい、それがシンポジウム開催の動機だった。
長崎街道を含め、「長崎」という冠がつくと、すぐに鎖国時代の長崎に結びつき、何かしら、長崎からすべてが始まり、長崎ですべてが終わってしまうかのような印象を与えてきた。確かに、鎖国時代の長崎は、西洋への唯一の窓口として歴史にその名を刻むが、その反面、中国との交流の方がより大きかったことは、これまであまり語られてこなかった。西洋からの知識が、日本の近代化に大きな影響を与えたのは事実だが、中国を中心にアジアとの交流があったことも忘れてはならない。
戦後の日本にとって、アジアはある時期まで近くて遠い国であり、そして長崎は憧れの西洋を追体験できる場所としてあった。そのことが、長崎の歴史と文化にかたよった光を当てて来た。
シンポジウムでは、長崎を起点としてではなく中継点としてとらえ、また、道も陸路に限定せず海路も含めて、「情報の道」として討論していただくことにした。
長崎街道の成立に関して、大村市は深い因縁を持っている。戦国時代末期に登場した大村家六代大村純忠は、日本最初のキリシタン大名として知られている。その純忠が開港したのが、大村領長崎港である。だが、長崎港は豊臣秀吉により収公されてしまう。
南蛮貿易とキリシタン布教という国際化の洗礼を受けた大村であったが、キリシタン大名であったことは、大村藩にとって大きな負い目となり、計り知れない苦労を伴った。幸い改易・転封されることなく明治維新を迎えるのだが、江戸時代を通じて、天領長崎を囲むように領地が広がる大村藩の最大の役目が長崎警護であった。
シンポジウムの中で、日本の文化もヨーロッパに大きな影響を及ぼしていたことや、文化は受け入れる一方ではなく、外に向かって自らの文化を紹介することが、文化の相互理解の上では重要との指摘は、聴衆にとっても新鮮な驚きであったと思う。情報が一方通行ではなく、双方向であることが確かめられたのは大きな成果であった。
歴史は過去を語るだけのものではない。むしろ未来学だと思う。不確かな現在を中継点に、過去と未来を結び付けているのが歴史だ。そして再び、歴史が地域を結び付けようとしている。
あとがき
長崎街道シンポジウム等実行委員会
シンポジウム担当
大村市教育委員会文化課
学芸員 稲富裕和