まず、「有田焼」と「伊万里焼」について。古くは有田焼は伊万里焼の名で通っていた。これは開窯当初からのことで、まことに古い。(寛永年間、17世紀初期)有田皿山の製品は多くが伊万里(唐津)から船積みされ出荷されていたから伊万里の名で流布された。今では有田の窯のものと、伊万里の窯のものは区別されているが、それでも、古い焼物は有田の窯のものでも「古伊万里」と呼んでいる。
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有田町の外れ、南山丁に柿右衛門窯はある。周りは美しい手入れの行き届いた広い庭。一本の柿の木が象徴的な趣きで繁っている。
秋には、色づいた柿の実が稔るという。
広々とした庭の中に工房や母屋が並び、展示場と古陶磁参考館がある。
外から眺める全体のたたずまいが、日本の原風景を偲ばせる。
原風景 それは360年ほど前の、柿の色を焼き物に染めつけるため、幾度も幾度も失敗を重ねながら、己の満足する「色」の創作にこぎつけた初代・柿右衛門の頃を、どうしても思い出させる。戦前の教科書にもその物語は綴られた。
白色の生地に明るい橙色、というよりも円く実った鮮やかな柿の色の絵は、華麗で、優美な世界の創出に、世間は驚いた。
柿右衛門の赤絵の材料(酸化鉄)を作る秘伝は代々伝わり、いま14代目がその技術を保持している。
ところで有田焼の歴史を少し。「文禄・慶長の役」で半島から多くの陶工が日本に渡来した。多くの陶工の一人に李参平がいた。彼は有田町の東のはずれの泉山に白磁の鉱山(皿山)を見つけて、白磁の焼成に成功した(元和2年・1616)と「旧鍋島家内庫所旧記」は伝えている。有田町では李参平を陶祖として祀る神社がある。
有田焼は、もともと呉須(青)がベースであった。白磁胎の上に、赤、緑、黄などの上絵の具を焼きつける色絵法が開発されたのは正保4年(1647)の少し前とされる。
長崎の「しいくわん」(四官か)なる中国人から技法の伝授を受け苦労の末に色絵の試作に成功した 旨の文章が酒井田柿右衛門家に残されている。
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焼物の世界はむつかしいとされるが、それは窯の歴史の足跡であって、美を愛でるのは素朴な心で、美しいものを美しいと感じればよい。