川端康成の「千羽鶴」その続編ともいうべき「波千鳥」では大分県飯田高原から竹田へかけての描写が詳しい。ここではその一部を紹介させて頂いた。文庫本にもあるので一読されることをおすすめする。
高原のなかほどらしい長者原まで来て、私は松かげに長いこと休んでいました。長者原には松のまばらな群れが散らばっていて、私は草原のなかの松に誘われたのでした。少し歩いて、また松かげで、おそい弁当を食べました。二時ごろだったでしょうか。広い草もみじを見まわしていますと、私の位置から言って、日光を受けているところと、逆光になっているところとでは、色が微妙にちがいます。山々の色もそれぞれちがいます。紅葉の色の濃い山は、ステンド・グラスでも見るようです。そうして私は大きい自然の天堂にいるようです。
ああ、来てよかった。と私は声に出して言いました。私は涙を流して、すすきの穂波がなお銀の光りにぼやけましたけれど、悲しみをよごす涙ではなく、悲しみを洗う涙でした。
私はあなたを思い、そして別れるために、この高原にも父の古里にも来たのでした。
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田能村竹田の旧居、田伏屋敷跡のキリシタンの隠れ礼拝堂、中川神社のサンチヤゴの鐘、広瀬神社、岡城址、魚住の滝、碧雲寺などの名所も、半日足らずで歩けました。
竹田のことを今も竹田町では「竹田先生」と言う人が多いようです。昨日私が久住から来ました道は、むかし大名行列が通り、竹田や広 淡窓など多くの豊後文人が歩いた往還です。頼山陽が竹田を訪ねて来たのも、その道です。竹田の旧居には、山陽と煎茶を楽しんだ茶室も残っています。その茶室と母屋とのあいだの庭には、芭蕉の黄ばんだ葉や枯れ折れた葉に陽がさしていました。桐の葉も黄ばんでいました。竹田がそこの野菜を山陽に食べさせたという畑の跡も、母家の前にあります。竹田記念館の画聖堂は、新しい建物ですが、なかに茶席もあって、ここでは抹茶でも、竹田の南画をかけることがあると聞きました。
キリシタンの隠れ礼拝堂は竹田荘の近くです。竹やぶの奥の岩壁に彫りこんで、かなり広い洞窟です。サンチヤゴの鐘には、1612SANTIAGO HOSPITALの文字があります。
竹田の昔の城主がキリシタンだったのです。 以下略
(新潮社刊 千羽鶴 川端康成著)