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ボランティアガイドと歩く「今こそ見て欲しい熊本城」(中編)

ボランティアガイドと歩く「今こそ見て欲しい熊本城」(中編)

 2016年4月、最大震度7の地震が熊本を襲い、熊本城も甚大な被害を受けた。瓦が落ち、櫓は崩れ、石垣がはがれ落ちたその光景は、日本中の目をくぎ付けにした。観光地としての再開には時間を要するのでは…そんなことも考えられたが、震災前より熊本城周辺のガイドを担ってきた「くまもとよかとこ案内人の会」は、地震後新たなガイドコースを設定し、6月中旬よりガイドを再開。修学旅行、団体ツアーなど、今年9月、10月は例年の2~3倍を超える数の観光客をガイドしているとのこと。
 2016年10月26日、「くまもとよかとこ案内人の会」会長の吉村徹夫さんに、現在のガイドコースを案内してもらった。

前章を振り返るなら…
http://www.welcomekyushu.jp/kyushufukkou/informations/detail/104


5.技術は今なお受け継がれて…

 「奇跡の一本石垣」というと、飯田丸五階櫓を想像する方々が多いかと思うが、実は二の丸広場近くの「戌亥櫓」も、隅石一本で支えられている「奇跡の一本石垣」である。この戌亥櫓、明治時代に取り壊された後、平成に入り復元された新しい櫓である。復元に使用された石材は新しい一方で、石垣を組み上げる技術は、戦国時代より石垣を築いてきた職人集団「穴太衆」の伝統技術を採用されている。
 戌亥櫓において特徴的なのは、櫓を石垣全体ではなくそもそも隅石によって支えている点である。この隅石4点が盛り上がった部分を「気負い」と呼ぶそうで、吉村会長曰く、「さながら相撲取りが気合を入れ、盛り上がった肩の様子から『気負い』と呼ばれていた、と思われる。」とのことである。
 400年以上前の技術が、現代に復元した櫓を支える石垣積に採用されている。一本石垣にならなければ、注目されていなかったかもしれない日本の伝統技術。地震を良しとはしないが、起きた結果スポットが当たる歴史と言えるのではないだろうか。


6.3つの時代を跨ぐ石垣の歴史

 熊本城の歴史は、天災と修復(復元)の歴史と言われるが、修復を繰り返し、一本の石垣に3つの時代が見て取れるのは、実に興味深い話ではないだろうか。
 ガイドコースの途中、二の丸広場から加藤神社へと向かう道すがら、堀を挟んで向かい側に戌亥櫓がある。この戌亥櫓から北大手門跡へと延びる石垣は、地震の影響で大部分が崩れ、本来石垣の内側にある土や石が見えてしまっている。
 よく観察してみると、ある部分を境に、石垣の裏にある栗石の色が時代によって異なることが分かる。戌亥櫓に近い栗石はやや白く、北大手門跡に近いそれは茶色が強い。戌亥櫓及びその近辺の石垣は平成に入り復元、修復された石垣であり、北大手門跡に近い石垣は、加藤清正時代に組まれた石垣という。ただし、戌亥櫓と北大手門跡の中間地点にある石垣は、明治時代に修復されたものと言われており、ここは、石垣の積み方が周辺と異なる。所謂、江戸時代後期以降に用いられるようになった「谷積み」という手法が取られており、一方で、より北大手門に近い石垣は、「布積み」と呼ばれる加藤・細川時代の手法がとられている。
 一本の石垣が倒壊したことで、これまで石垣で覆い隠されていた、熊本城の修復の歴史を垣間見ることが出来るのである。


7.熊本城は九州の“日本橋”?

 地震後、櫓や石垣が倒壊した熊本城を目の当たりにし、熊本で暮らす人々の中には涙を流す人もいたと聞く。熊本城は、熊本の人々にとっての心の拠り所であることは容易に想像できるが、「幼い頃から近くにあったから」というだけでは中々腑に落ちない。
 江戸時代、現在の二の丸広場の場所には、現代で言う「国道」が走っていたという。“薩摩街道”“豊前街道”“豊後街道”がぴったりと交わる点ではないものの、花のお江戸でいえば、さながら日本橋。城内でありながら、藩に仕えるお侍さんだけでなく、町人、百姓も日常的に通っていたそうで、つまり、熊本城には人々の日常があった。参勤交代はもちろん、かの篤姫さまも通った二の丸広場。なるほど、今もなお憩いの場である。

●くまもとよかとこ案内人の会HP
http://www.k-yokatoko.com/saruku.html

  • こちらも奇跡の一本櫓「戌亥櫓」

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  • 石垣の左右中央で、栗石と言われる石垣の内側に敷かれた石の色が異なるのがよく分かる

    石垣の左右中央で、栗石と言われる石垣の内側に敷かれた石の色が異なるのがよく分かる

  • 今も昔も人の往来が多い、九州の日本橋「二の丸公園」

    今も昔も人の往来が多い、九州の日本橋「二の丸公園」

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