父の「野村太郎兵衛祐勝」は「母里太兵衛」(ぼりたへい)の実弟で、韓国出兵の文禄の役(1592年)で武勲を挙げたあと、中津城下で病のため38歳で亡くなりましたが、
中津城で催された酒宴の席で「宇都宮鎮房」(しげふさ)を討殺した際に長政の「太郎兵衛肴を!」という掛け声で太刀を浴びせたと言う逸話が残っています。
子息の祐直は17歳から黒田長政に伴って初めて朝鮮に渡りました。慶長5年には豊後「石垣原の戦い」で抜群の働きをして、慶長8年には旧笠松村から頴田、
庄内及び稲築の山野、口の春に至る福岡県嘉穂郡北東部一帯の知行3000石を拝領し中老になりました。嘉麻市(かまし)鯰田(なまずだ)に鯰田城の築城と晴雲寺の建立をし、
如水と長政、忠之の三代に仕え、黒田二十四騎のうち江戸末期まで中老として家格が維持できたのは野村家を含めてわずか五家だけです。
黒田節で有名な「日本号」の槍は母里太兵衛から兄弟分の後藤又兵衛に譲られ、後藤又兵衛が黒田長政との不仲で福岡県大隈城(おおぐまじょう)(益富城)(ますとみじょう)を出るとき、この槍と家紋を娘婿の野村祐直に与えられました。
「日本号」の槍はその後野村家に代々伝わりましたが、のちに安川敬一郎氏に渡り、その後黒田家に献上され、昭和53年に黒田家より国宝の「金印」とともに福岡市に寄贈されました。
祐直は初代の鯰田城主でしたが鯰田城は一国一城令により13年間で廃城となり、廃城後は野村大学と称し1631年に逝去、墓所は鯰田の晴雲寺の近くにあります。
身長180cm以上の巨漢だった後藤又兵衛は黒田家の家臣として数多くの軍功を挙げ「槍の又兵衛」として知られ、黒田八虎の一人。
現在の姫路近郊に生まれたが、父・新左衛門が早く死去した為黒田家にあづけられ、成人になるまで官兵衛によって育てられたことから、長政とは兄弟のようにして育った。
朝鮮出兵の時には抜群の働きをして、勇猛果敢な強さだけでなく策略を駆使した智将としても知られ、ここでは加藤清正と同じく「虎退治」の逸話が残されています。
また関が原の戦いでは全身に多くの矢や刀による傷を負いながら大活躍をして東軍の黒田隊の評判を高めました。
慶長9年には福岡県大隈城(益富城)の初代城主として16,000石を与えられ長政の右腕とし手の関係でした。しかし次第に関係が悪化して2年後に不仲な関係だった隣国の細川家との交流を図ったとされ、
黒田長政との不仲で城主を辞めて浪人となり、9年後に豊臣家の家臣として「大阪夏の陣」に加わり「大阪城五人衆」の一人に数えられましたが「道明寺河原の戦い」で伊達政宗勢の銃弾に倒れ、壮絶な討ち死にを遂げました。享年58歳
この時一緒に戦って討ち死にしたのが「木村長門守重成」で、この年に飯塚宿で長門守の妻が子息の「千代丸重基」を出産しました。この千代丸が飯塚宿・森崎屋の初代です。
槍術に優れた豪腕の武将・母里太兵衛は黒田二十四騎のなかでも特に重用された「黒田八虎」の一人ですが、黒田節に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑みとった逸話で知られています。
負け知らずの猛将として武功を数多くあげ、生涯であげた首は76級といわれています。
慶長11年、後藤又兵衛の後をついで2代目の大隈城主となりましたが、この年江戸幕府に命じられて江戸城天守台石垣の普請奉行を務め立派にその任を果たしましたが、
この際家康が誤って「母里」を「毛利」と感謝状に書いたため黒田長政から「毛利太兵衛」に改姓するよう云われ、それ以来「もりたへえ」と呼ばれるようになりましたが正式には「ぼりたへえ」の呼び名が正しいようです。(※1)
また慶長17年には内野太郎左衛門の協力で冷水峠を開通させ内野宿を設けました。妻は大友宗麟の娘で、実弟が野村太郎兵衛になります。
後藤又兵衛が大阪夏の陣で討ち死にした同じ年の1615年に嘉麻市大隈で死去、菩提寺は大隈の麟翁寺になりますが、境内にはお墓があります。法名は麟翁紹仁。
(※1)黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、嘉麻市などでは現在でもこう読まれています。
当サイトでは、地域性をあらわす目的から「ぼり」で統一しています。
信心深い官兵衛の異母弟。職隆の三男で、母は神吉城主の未亡人。
黒田八虎の1人、諱は利則。関ヶ原の役では国元に残り、官兵衛の九州平定に貢献。 中でも豊後富来城攻めは激戦となり、10日間もの籠城戦が繰り広げられた。 ここでも奮戦した修理助だが、身体を壊して前線を退き、その後は中津城の守備を任されている。筑前入国後は宗像郡津屋崎の城代となり、1万2千石を拝領。
黒田節にも謡われた豪傑。生涯であげた首は家中トップ。
黒田八虎の1人。諱は友信。酒を飲み干した褒美に福島正則より名槍・日本号を授かった豪放磊落な母里太兵衛。 生涯であげた首76級は、二十四騎の中でも群を抜く、無類の槍使いだ。 その象徴とも言える"日本号"は、慶長の役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛に受け継がれるが、又兵衛の出奔により母里家に返還。
異郷で非業の死を遂げた勇士。
小寺政職の家老・小河良利の弟。諱は信章。小寺家の没落後は官兵衛に仕え、九州の陣で財部城攻めに高名を挙げる。 豊前一揆でも赤旗城を破るなど軍功を重ねたが、伝右衛門を語る上ではやはり、朝鮮での奮戦が欠かせないであろう。 文禄の役では、小西行長が守る平壌と長政の白川を繋ぐ重要拠点、竜泉城を死守したことで知られる。
藩内整備にも尽力した温厚派。
諱は丹斎。桐山氏は近江国坂田郡の地侍で、播磨国に移住後、黒田家に仕えた。 太兵衛も早くより職隆に仕え、有岡城での留守職中連署起請文にも名を連ねる。 朝鮮の役では明と講和後、その功績から謁見した秀吉より甲冑を拝領している。 長崎街道・筑前六宿の1つ、山家宿の町立にも力を注ぎ、初代代官を務めた。
水汲みから出世した異色武将。
播磨国益田村の生まれで、諱は宗清。 台所の水汲みからの取り立ては、あらゆる階層から人材を登用した官兵衛の見識深さを代表する事例でもある。 筑前入国後は鉄砲組頭に任ぜられ、3千石を賜るが、読み書きが出来ればさらなる加増があったはずだ。 野口佐助と共に普請奉行も務めている。
勇猛果敢な謙信流の遣い手。
播磨国加古郡の出身で、父は官兵衛の囲碁仲間だった僧侶と言う。地元の野口村から姓を取り、17歳で出仕。諱は一成。
福岡城の築城においては普請奉行として石垣の重要部分を担い、完成後は二の丸城番を務めた。島原の乱では忠之に従軍。晩年に用いた水牛形兜は、現存する変わり兜の名品として知られる。
孫子の一節を名乗る水軍の雄。
播磨国三宅の地侍から、官兵衛の招きで300石を拝領して家臣となる。 諱は家義。"山太夫"は官兵衛が名乗らせたもので、大山城攻略の際、「あのような小城を落すのは朝飯前」と豪語する姿に孫子の一節「不動如山」を充てたと言う。 陸戦の雄が揃う黒田軍にあって、水軍を任された山太夫は頼もしい存在であった。
二十四騎を助けた便利指南役
諱は景延。小寺家臣から、与力として黒田家に属す。 九州の陣では、豊前上毛郡姫隈城を攻め、城主の日熊直次を降伏させ高名した。 さらに目立った活躍を見せたのは朝鮮の役で、進軍時には後藤又兵衛と千手を務め、梁山城の攻防では城を死守するなど奮戦。 筑前入国後は、中老並みの3千石を拝領。歌人としての才にも優れ文武両道であった。
各地の名君たちに仕えた智将。
諱は武久。本姓は田原氏で近江国神崎郡生まれだが、その経歴は特異。
父を失って書家・建部賢文に養育された後、和田氏、六角氏、山崎氏と渡り奉公を繰り返し、
柴田勝家に仕えてからは長篠の合戦で名を上げ、3千石を拝領。その後、主水は前田利家、池田信輝、佐々成政に仕え、成政が切腹した後は豊前国に移り、長政から300石を拝領。
文武両道だった連歌の名人。
諱は種良。本姓は筑前の名族・原田氏(宝珠山氏)。 毛利・黒田の九州攻めでは早くから秀吉に従い、官兵衛の豊前入国後は秀吉から与力として付属され、黒田家に仕えた。 筑前入国に際しては2千石を拝領、黒田騒動後は栗山氏に代わり、上座郡左右良に入った。武勇を多く残した反面、寡黙で実直な性格から和歌を愛し、連歌においても名人。
官兵衛の弟で家中を支えた長政の後見役。
黒田八虎の1人で、諱は利高。当初は兄官兵衛と共に播磨国各地を転戦し、信長の中国攻めから秀吉の馬廻りとなる。 その後は秀吉に仕え、岸和田陣、四国陣に独立武将として参戦。 天正14年(1586年)からは黒田家に戻り、九州征伐における日向陣では、千手を務めて長政を大いに助けたと言う。
黒田家中で随一のキリシタン。洗礼名はミゲル。
黒田八虎の1人、諱は直之。職隆の四男。筑前に入国、1万2千石を拝領した際も、やはり教徒の多い秋月城下にて2千人もの信者を保護している。 秋月の地には、今も図書助に縁ある天主堂跡とキリシタン橋が残る。死期を自覚した際には枕元で聖書を読ませ、息子パウロ(直基)に「ただ信仰を貫け」と遺言した。
職隆の信望も厚かった名将。刀より采で多くの軍功を挙げた。
黒田八虎の1人。諱は之房。黒田藩二番家老として家中の人望を集め、黒田家臣伝には「行儀すぐれた武勇の心懸深かりけり」と記されている。 江戸城にて徳川秀忠に拝謁した際には、選伐の功から鹿毛馬も賜っている。筑前入国後は1万6千石を拝領し、黒崎城に入った。隠居後に勃発した黒田騒動では、黒田三左衛門らと奮戦し、藩を死守。
官兵衛の信頼厚き筆頭家老。母里太兵衛とは義兄弟の契りを結ぶ。
黒田八虎の1人、諱は利安。少年期は幼名の善助で親しまれる。姫路近郊の栗山に生まれ、15歳で官兵衛に仕官。 有岡城の戦いでは、何度も忍び込み幽閉された官兵衛を激励、落城時に炎の中を救い出している。 筑前入国時に左右良城を預かり、1万5千石を拝領。隠居後は、領内に建立した円清寺にて官兵衛を弔ったと言う。
栄えある三奈木黒田氏の初代
黒田八虎の1人で、諱は一成。有岡城の看守だった父・加藤重徳の恩に報いるため官兵衛が養子にし、長政の弟として育つ。
筑前入国後は下座郡三奈木の城代となり、以後、一門は三奈木黒田氏と呼ばれた。
黒田長政騎馬図を製作し、花鳥風月を愛した芸術的な横顔を持ち、美奈宜神社に植樹した銀杏大樹は、今なお神木として崇められている。
若くして逝った伝説の剛者。
母里太兵衛の実弟で、諱は祐勝。幼時から黒田家に仕える。 丹波国氷上郡は野村伊予守の娘を娶り、野村城の陥落により姓を受け継いだ。竹中半兵衛から野村氏に譲られた、一ノ谷兜を愛用したことでも知られる。 天正16年(1588年)に秀吉から反旗を翻した大友家臣の宇都宮鎮房の仕置きを命ぜられ、中津城にて催された酒宴で討殺。
戦国乱世に翻弄され続けた猛将。長政との確執から不遇な晩年へ。
諱は基次、一般には後藤又兵衛の名で知られる。六尺を超える巨漢で「槍の又兵衛」の呼び名を持つ、黒田八虎の1人。 黒田時代の軍装では二本菖蒲脇立の兜や十王頭の兜が知られ、旗印は屶紋。 豊臣秀頼の招きに応じ大阪の役では孤軍奮闘しながらも、道明寺河原にて伊達政宗勢の銃弾に倒れた。
博多の町割に寄与した猛将。
諱は重勝。久野家は播磨国加東郡久野村の土豪で、永禄12年(1569年)に官兵衛の小姓となり、やがて父の跡を継ぎ家老職に。 九州陣における筑前高祖城の戦いでは目付として参加し、月毛の馬に乗り大手門まで一番駆けしたと言う。豊前入国は5千石を拝領し、戦乱で荒廃した博多の復興を命じられた。
猛虎を一刀で切り伏せた剣術家。
美作国の名族・菅氏の出で、諱は忠利。 剣術に長け、猛虎を一刀のもとに切り伏せたほど。 関ヶ原の役では小早川秀秋の謀反を画策する使者として重要な役目を果たし、強兵で知られた島左近の軍うぃ追散させるなど奮戦。 晩年は志摩郡で新田開発に尽力した後、隠居を惜しむ長政の命により、福岡城南二の丸の城番も務めた。
弱冠13歳で初陣した若武者。
本姓は井口氏。諱は吉次。小寺政職の二男が人質として荒木村重のもとに送られた際、父・与次右衛門は妻の妹を付人とした。
有岡城に幽閉された官兵衛も世話し、その縁あって息子4人が黒田家に仕える。
筑前入国後は2千石を拝領する足軽大頭となり、甘木宿の代官も務めた。後には大阪城の普請奉行にも命ぜられ、石垣普請を担っている。
旗指物を守り続けた名奉行。。
黒田八虎の1人、諱は利則。関ヶ原の役では国元に残り、官兵衛の九州平定に貢献。 中でも豊後富来城攻めは激戦となり、10日間もの籠城戦が繰り広げられた。 ここでも奮戦した修理助だが、身体を壊して前線を退き、その後は中津城の守備を任されている。筑前入国後は宗像郡津屋崎の城代となり、1万2千石を拝領。
首50級をあげた派手好き猛者。
諱は長利。父代より職隆に仕え、官兵衛より赤松の名門吉田姓を賜う。
二間半の槍を持ち歩く猛者としても恐れられた。別所氏との播州攻防で武功を重ね、後に盛大な首供養を行ったことからも、派手な舞台を好む、見栄っ張りな性格が伺い知れる。
あげた首は50級を数え、母里、栗山に次いで二十四騎トップ3に入る。
波乱の生涯を送った異端児。
本姓は明石氏。諱は正勝。播磨に生まれ、朝鮮出兵時に住江茂右衛門の従卒から直参100石へと抜擢。 筑前入国後は長興に従い、秋月に分封。秋月藩の独立騒動では、警戒網を突破して長興を江戸に導くなど、藩独立に尽力した。 が、同藩でも浮いた存在となり、脱藩。小田原城主の老中・稲葉正勝に仕え、箱根関所の総番頭となった。
「加藤清正の虎狩」のモデル。。
諱は直利。本姓は武田家臣の松本氏で、生まれは信濃国軽井沢。林大学助の養子となり、播磨に移住し官兵衛に仕えた。 講談では「加藤清正の虎狩」として有名な逸話だが、実際のモデルは太郎右衛門である。 大組頭となった筑前では3千石を拝領、代官としても2千石を預かり、藩士で唯一、屋敷に2階造りの櫓門を許された。
マウスを当てると武将の説明が表示されます。